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⑥N大学の頃

2003年4月にT県にあるN大学大学院へ入学した。親元から遠く離れるのは初めてのことだった。忙しい講師勤務から自由な身の学生へと生活が変わった。N県N市も地元のM市とは雰囲気が違っていると感じた。

N大学大学院には当前だが年下の人間が多かった。しかし教員を休職して来ている年配の方もいた。美術研究室の入学生は12名だった。わたしが専攻していた研究室は、学生がわたし一人だけだった。研究室の場所も他の研究室とは別の階にあって遠く離れていた。一方、絵画の研究室は20人を超えていた。学生たちは研究室ごとに居場所をはっきりと別けていた。お互いの研究室が干渉するのを避けていた。自分の制作できていれば良いという雰囲気だった。そういう雰囲気が学生と教官に浸透していた。担当教官は孤独を好む傾向があった。他の研究室はにぎやかなのに、自分だけ教室で独り制作していた。

寂しいので絵画研究室に自分の制作場所を作ってもらおうとしたが反対する学生がいて上手くいかなかった。こちらから訪ねていくことはあっても向こうからこちらの来る人は少なかった。制作中に訪ねていくのも気が引けた。人数の偏りが力関係の偏りになっていた。
しかし自分が積極的に接していけば人間関係も良くなっていくのではないかと思っていた。自分の専攻を途中で変えるのも嫌だった。しかし自分なりに努力はしたが状況は変わらなかった。

どう考えても公平な関係ではなかった。でも、そういった立場の人間が私ひとりだけだった。院会の集まりで、そのことを話題にしようとしたがためらわれた。向こうは大人数だし、上手く言葉に出せるだろうかという不安もあった。常に大学関係者に対する怒りや不満の気持ちが強かった。
この時期に人間関係や集団心理の怖さについて思い知った。また、自分が一番嫌いなのは、こういう冷たい人間関係なのだと、再び確認した。

講義の課題で文章を書くと言葉の使い方にはそれなりの良さがあることには気付いた。だが、それを組み立てることはまだ分からなかった。

T県に来てから講師の頃を思い出して悔やむことが多かった。思い出すと苦しくなることがあった。

T県に来てからは時間もあったので自分自身について考えることもできた。
『いったい、自分の他者との対等感の無さはなんだろう?』徐々にこのような自分への問いが生まれてきた。誰かと比べて能力的に劣っていたとしても、それと大きく自信を無くすことは別の問題だ。この引け目は何だろう?また父親は頭のいい人だったと聞く。自分もそれなりではないのか?自分はできるはず…。』

 大学院1年時の日記に次のように書いた。
『自分はこれまでしっかりと成しえたものがない。何をしていても中途半端な諦める感じがあった。でもこの院で制作だけでもしっかりやり遂げれば、これまでとは違う毎日が見えてくるかもしれない。』

そんな孤独な環境の中でもいくつかの出会いがあった。その中でも、Dさんとの出会いが強烈であった。Dさんは同じ研究室のOBで幼稚園の教員をしていた人だった。偶然にも同い歳だった。Dさんは頭の回転も速く自分を前面に出してくる感じだった。知的だが気取らない人柄だった。わたしが講師時代に同僚の教員に感じていた気取った仮面を被っているような感じがなかった。それまでの職場で、自分と同年代や同い年だが、正規で働いている人に会ったことは何度もあった。でも自分と比較することはあまりなかった。しかしDさんのことは本気で自分と比較した。Dさんの対等な接し方のせいもあったし、自分に向き合えた時期に出会ったからだろう。Dさん自体に惹かれていることが大きかった。

Dさんは社会人ということもあり話にも共感しやすかった。学生とは通じないことも通じるようだった。数回しか会ってないにもかかわらず孤独な学生生活の中で精神的な支えになっていた。またDさんに会って自分の世界が広がったようにも感じた。

わたしはこれまで自分に欠けているものをDさんの中に見つけたのだろう。
Dさんは論理的で、話が理路整然としていた。またDさんは私とは違う形で家族について問題を抱えていたようだった。わたしとは逆で、きまりが厳しい家庭のようでその不自由さに苦しんでいるようだった。また仕事の話も忙しく働いている様子が伝わってきた。しっかり地に足が着いていた。作品制作についても制作そのものよりは人とのつながりを重視しているように見えた。かなりユニークな性格だが自分に対して肯定的だった。
Dさんの中に見つけたものでいちばん大きなもの…それは尊厳…自分自身に対する祝福のようなものだと思う。
Dさんに会ったことで、ずっと奥にしまわれていたわたしの一部が意識されはじめたのだと思う。

夏季休業中に『灯台』(作品①)という作品を作った。何か自分の心の傷を暗示するような作品だと制作後に思った。

秋にグループ展がおこなわれた。わたしは家族をテーマにした『BOSHI』(作品②)という作品を出した。このタイトルはそのまま『母子』のことだった。
少しずつ自分の問題に向き合いはじめていたのだろう。そもそも、ずっと以前から家族のことを問題には感じていた。その意識がN県に来てからより強まったのだろう。学生生活が孤独なことや将来に対する気持ちが定まらないことで、精神的に苦しい中でできた作品だった。

作品を通して自分のことが分かってもらいたいという心境もあったろうし、自分の内面を率直に反映した作品でもあった。

グループ展で色んな人や作品にふれて刺激を受けた。Dさんにも再会した。Dさんは日常に不平不満を持っていた。それなのでわたしは彼女に日常にある価値について気付いてほしいという気持ちだったと思う。

冬に版画研究室の飲み会があった。Dさんも来ることになっていた。この日は朝からプレッシャーだった。Dさんは働いているのに、わたしは男性にもかかわらず未だ学生だった。今更のことだったがそういうことを考えていた。飲み会では、わたしは調子が出せず、思ったように話せなかった。自分が表現できなかった。不完全燃焼で後味の悪いものになってしまった。Dさんも?な様子だった。悔しかった。『この不甲斐なさはなんだろう?』『自分の他者への対等感の無さはなんだろう?』『私は自分を肯定できているのか?』強くそう思った。結局、この飲み会がDさんとの最後の別れになった。

後から思えば、Dさんに対して、わたしは、自分の母親の理想を投影していたと思う。そしてその理想から生まれたもうひとりの自分に出会ったようだった。実際この後、自分の内面でもうひとりの自分に出会うことになる。あまり話してもないのにもかかわらず、想像のDさん像を作っていた部分もあったと思う。

数日間だが地元に帰省した。母と二人で年を越した。側から見れば親孝行だが母に対する違和感があった。

年末に、はじめて心療内科を訪ねた。きっかけは些細なことだった。大学院の研究生の女性が男性と街中をいるのを目撃しただけだった。それなのに妙にショックを受けてしまった。特別にその女性に強い思い入れは無かった。しかし、その頃は孤独感から精神的に追い込まれていた。それで少しのことでもショックを受けてしまったのだろう。それを目撃してから意識がぼんやりとしており頭の中に霧があるような状態だった。それまで味わったことがない感覚だった。しかし3日間くらいで治った。念のために診療を受けたが、何でもないと言われた。

年は明けて2005年1月に学内で作品展をした。Dさんが見に来てくれるかもと淡い期待をしていた。何か伝わるかも、変わるかもと。結局は来なかったようだった。

〈思考の広がり〉

その日は何度目かの就職ガイダンスだった。講師の女性は理路整然としていた。講義は精神論だけではなく論理性の大切さを指摘していた。面接での自己アピールを、論理的に組み立てて効果的に行うことを教えていた。講師から私に対して『誠実そうではある』というようなことを言われた。
またある日の就職ガイダンスはグループディスカッションが行われた。この日は特に論理的思考の大切さが言われた。講師からはっきりと話す内容に論理性がないと指摘を受けた。他の授業のときも、周りの人と比べてその様な感じがしていた。
論理的とはどういうことだろうか。以前から気にはなっていたが特に勉強したことはなかった。家族や親戚にも理路整然としたタイプの人はいなかった。あまりそういうのが好きでもなかった。言葉や理屈に偏った表現というのが嘘くさく感じていた。『論文の書き方』(澤田照夫)を読みはじめた。この種の本を読むのもはじめてだったかもしれない。最初のほうを読んだだけで驚きがあった。文章のひとつひとつが発見につながっているようだった。論理性を学ぶことが現実に向き合うことのように感じていた。
それまでは、無意識に避けていたのだろうか。論理性も『気づき』に至ることのひとつの要因だったと思う。また自分の問題に気づき始めていたのでそういったことに興味を持ち始めたのかもしれない。それまでは自分の人生の秘密に辿り着くのを知らないうちに避けていたのだろうか。

2月の版画ゼミの時に突然、担当教官からDさんが婚約したと聞かされた。すごいショックだった。根拠のない甘い期待は崩れさった。

修了展の話し合いがあった。20人近い院生が集まり話し合った。話の要点を意識すればスラスラと話の道筋が見えてきた.話の道筋が分かっているので、わりと的確に意見も言えた。

この頃から自分に今まであまり意識してこなかった思考力があることを気付き始めていた。他の人の話を聞いたり意見を述べたりしてそのことを確認していた。論理性だけでなく、記憶力も増しているようだった。ものごとの繋がりを辿っていくとそれまでよりも、前のことまで思い出せた。本を読む際も、文章が早く読め、内容を整理してつかめるようだった。神経が過剰に働きすぎているようにも思った。

それまでも論理性がなかったわけではない。それぞれの場面でその時の自分なりに悩み考えて答えを出していた。しかしどうしても越えられない壁のようなものがあり、それが思考の広がりを妨げていたのだと思う。

論理性のことだけではなく様々なものが気付きへの扉となった。講師などの仕事、他県での生活、大学院の環境、Dさんのこと、親子関係の変化・・・ETCが自分の奥底に抑え込んだものを『現実』に向き合わせたのだろう。

10年間、ずっとその扉をノックしていたのだろう。その最後の鍵がDさんに対する思いや論理性だったのかもしれない。

〈気づき〉

3月に地元に少しの間、帰省することにした。帰り道の車中でDさんのことばかり考えていた。精神的に落ち込んでいた。『もう1度はない』と心の中でくりかえした。

地元のM市に近づいた頃、車中から真っ赤な夕焼けが見えた。あまり見たことがないようなすごく真っ赤な夕日。実際はいつも見ている夕日とそう変わらないのかもしれなかった。しかしその光景は夕暮れのような夜明けのような不思議なものに感じられた。心にグーッと押し寄せるような、しみ込んでくるようなものがあった。悲しみ?後悔?見ていてつらかった。

実家に戻り自分の部屋に入った。それまで特に気にも留めたかったいつもの自分の部屋なのだが、見ていてつらい。この部屋の中で1人よく悩んでいた。過去の悲しみが宿っているようだった。窓から見える世界も孤独でつらい。

ベッドに座っていた。昔のことを考えていたのだと思う。
そして脳裏に浮かんだ。過去の出来事。中学校、高校、大学の時期。病気のこと、家族のことが次々に浮かんだ。
それまではそれが1つ1つが断片的で繋がりが無いようだった。またその1つ1つの記憶もあいまいでぼやけていたと思う。しかしその日、わたしの頭の中で過去の出来事が繋がりあった。はっきりとそれらの事を思い出した。
それらが思い出されてきて停まらなかった。まるでダムが決壊し水があふれ出るような感じだった。
そして、すべてが繋がり新しい意味を見せた。

過去のつらさや後悔、孤独が、ど――と押し寄せてきた。それはまるで世界が裂けていくようだった。ちょうど帰り道に見た、真っ赤な夕日のような景色が現れた気がした。それが裂けていくようだった。

初めは主に中学校、高校の頃が思い出していたと思う。なぜ自分があんな目に会わなくてはならなかったのか!なぜあんなことが起きたのか!このとき初めて自分が十代の子供には耐えられないような傷を負っていたことが理解できた。
そして自分が一方的に悪くないと分かったときに、世の中や自分のことが自分にとって本来の姿で見えてきた。
病気をしたことだけでなく、それまで自分が家族の中に居場所が無かったということがとても悲しく思えた。もっと昔の頃の記憶…幼稚園の記憶、小学校2年生の頃からの家庭の状況も思い出していた。わたしは常に居場所のようなものがなかったのではないか。そのことが中学校・高校の出来事に繋がっていたのだ。
そして現在の自分のことに繋がった。自分が思っていたより現実というものの低さを知った。すごく孤独だった。すごく淋しかった。
それはそれまでの人生観をひっくり返すような衝撃だった。

涙が次から次へとこぼれて、長袖を着ていたが、両腕の布地がぐっしょり濡れた。こんなに涙を流したことは小学校のとき以来だった。

ずっと正体がつかめなかった『欠けたもの』に気付いた時だった。それまで意識から遠ざけていた過去の痛みを思い出した時だった。

『自分が子ども時代に傷を負ってそれに10年間支配されていた…』自分なりに頑張ってきたはずなのに、こんなに大きなことに気付けなかったなんて…。気持ちが後悔に向かった。悔しかった。
それはまったく予想していない答えだった。味わったことがない感覚だった。自分がどうなってしまうのか怖かった。

『これは現実か?信じられない…今になって思い出すなんて。こんなことありうることなのか?・・記憶喪失の一種とか?』
『記憶が順序だって繋がりを持って現れてくる。これまでは、できなかったのに…。これからどうなるんだ?どう情報を処理すれば。大丈夫か?私の頭は?』
頭がおかしくなるんじゃないかと思った。後頭部が詰まるような感じがした。
翌日、友人に会ったときは消耗しきっていた。

大学院に入学した頃、日記に書いていたように、わたしはそれまでとは違う毎日を見つけたかった。この経験はわたしが人生を歩むために必要な、いつかは通らねばならない関門だった。わたしの『夢』が叶えられたとも言える。かつて隔てられてしまったわたしの大切な一面に出会えたのだから。

(それは『10年間』抱き続けていた思いでもあり、中高のときに求めていた表現することや精神的な強さでもあったと思う)

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