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⑦発症してからの頃〈回復期〉

〈喪失感、無力感〉

抑うつ状態だったが、大学院は続けるつもりだったのでT県に戻った。

少し前から特別支援教育を勉強しようと考えていた。『気づき』があってから、自分自身に色々な変化がおきたようだった。以前より記憶する力が増しているようだった。記憶を辿っていくと以前より古い事まで思い出せた。また読解力も上がっているようだった。車の運転が以前のようなぎこちなさがなく正確にできるようだった。道にもあまり迷わなくなった。それから物がやけに奥行きがあり立体的に見えた。考え方だけじゃなくそういった他の感覚も変化しているようだった。

ある日、寮から車で数十分のところにある川辺を一人で歩いていた。歩きながら自分がすごく無価値だという思いにとらわれた。それまでの自分の人生に価値が感じられなかった。自分が歩んできた人生、仕事等・・・。自分に対してふがいなさ気持ちだった。失恋に対しても『自分の問題に気づいた後にDさんと出会えていたなら』と考えて後悔していた。『気づき』で大切なものを得たはずなのに、同時に多くのものを失ったような感覚だった。 (それまでの自分の考え方や世界観を否定するネガティブな信念に変わってしまっていたのか) 大学院の孤独な生活の中で過去の傷や現実に向き合わなくてはならなかった。自分がおかれている現実に対して自分はあまりにも無力に感じた。自分の中の理想と現実は大きく離れていた。寮で、鏡に映った自分の姿をみて無力な気持ちになった。問題に気付いて、しかしまた自分の無力さと向き合わなくてはならなかった。

〈感覚鈍麻と抑うつ〉

5月に家族で作品展をすることになっていたので制作をしていた。体力や気力はあまりなかった。しかし、計画立てて制作に取り組むことで、これまでよりも思ったように作業が進んだ。はじめにイメージしたものに近い作品ができた。S大学時代のいきあたりばったりの作品制作とは違っていた。しかし心身ともに相当に無理をした。精神的な落ち込みが普通ではない感じだった。なぜ家族のために作品を準備しているのか疑問に思うことがあった。家族展で久しぶりに家族がそろった。しかし家族に対する親しみが持てなくなってきていた。展示中いっしょにいる時はそれほど感じなかった。Dさんに手紙を書いた。どうしても自分の気持ちを知ってもらいたかった。書き終わったが、『もう遅いよな』という気持ちもした。返事が来たのは1ヶ月後のことだった。未だDさんを求めていた。Dさんならわたしの問題を分かってくれるはずではと。しかし現実にはDさんとはもう会えない。(Dさんなら分かってくれるという後向きな考え方だと思うが)

6月に特別支援教育の教育実地があった。この頃には、大学院にいる意味が分からなくなっていた。居ること自体に違和感があった。寮の部屋に一人で居て『なぜここにいるのか』という気持ちになった。元から大学での人間関係が上手くいかないことや孤独な環境があったが、そういうことよりも、まるで世界全体が肌に合わないような感じだった。世界から切り離されたような感だった。自分が以前とはものごとに対する感じ方がまるで違っていた。本を読んでいても人と話していても以前とは感じ方が違っていた。過去の傷に気づくまでの『10年間の自分』と気づいてからの『新しい自分』が一致しないような感覚だった。世界に対しても自分に対しても強い違和感があった。(『気づき』があって、もう1人の自分との間に隔てる壁はなくなり出会えたのに、そこが裂けてしまっていて繋がらないような感覚ではないだろうか。)日増しに孤独や不安が強くなっていった。この場所に居られない気持ちだった。ストレスから自分の部屋でひどい腹痛になった。教育実地の話し合いの場に行くと、ここから早く出たい気持ちでいっぱいだった。気力を消耗していた。妙に疲れやすくなっていた。養護学校への実習までいったがリタイアした。辞めるかどうかはかなり悩んだ。それから休養するために実家に戻った。教育実地を途中で辞めたことを後悔する気持ちが出ていた。 7月は地元に帰って過ごした。気持ちの落ち込みがひどかった。 Dさんへの思いを引きずっていた。他の男に取られてしまったと落ち込んでいた。悔しい思いでいっぱいだった。失恋したことと、『10年間の自分』に対する違和感が入り混じっていて、混乱していた。「あれは自分じゃない」と過去の自分を否定したい気持ちだった。自宅のマンションから飛び降りてもいいかな、と思った。そういう意思があったというよりは、本能が弱っているみたいに死に対する怖さを感じないようだった。体調が良くないにもかかわらず、教員採用試験の勉強をしていた。本を読むと文字がいっぺんに入ってくる感じだった。自分がコントロールできていない感じだった。そんな日々を続けるうちに、めまいを起こした。目が回り、物がだぶって見えるようになった。自分というもののイメージが分からない感じだった。自分というものがつかめなかった。自分も回りの世界も砕け散っているようだった。採用試験を受けたが体調がおかしくそれどころではなかった。試験官になにを聞かれているか分からないこともあった。地元の心療内科に行った。軽度のウツではないかと言われた。それ以上のことは言われなかった。坑ウツ薬(ルボックス)を処方してもらった。大学を辞めるかどうか悩んだが、『ウツの時は大きな判断を先送りにしたほうがいい』と本で読んだ。まだ教育実地を辞めたときみたいな後悔をしたくなかったので続けることにした。(この判断は間違っていたと思う。PTSDでは自分で主体性をもって決めていくことが大切らしいので・・・。よくは分からないが。)家族に状態を話してもやはり理解を得ることはできなかった。伝わらず共感を得ることが出来なかった。過去のことで母を責める事もあった。母との関係も悪くなって実家に居づらくなった。実家にいられないので祖母の家に住んだが、祖母にも疎まれた。祖母は昔から人間嫌いなところはあったが、この頃には、そういう面が昔より表に出ている感じだった。

この世に自分の話を理解してくれる人がいなかった。医者も「気の持ちよう」と言うばかりだった。同級生も電話でなら多少は話を聴いてくれる人もいた。しかし体調を崩していてすぐ疲れた。自分の状態を俯瞰してみることが難しかった。それらのことが事情を伝わりづらくしていた。以前のように、人に親しみを感じることができなかった。しかし一方では人との接点に飢えていた。孤独だった。もっと休みたかったが、地元にはもう居られなかった。 8・9月はT県の旅館でアルバイトをした。めまいもしていたので大変だった。同じ飲食業だったが以前の居酒屋のようにはできなかった。何もかも以前と違っていた。世界が変わってしまったようだった。教師としてなりきっていたので、再び飲食業をするのに抵抗があったからかもしれない。思うように体が動かなかった。地元にもT県にも居場所がなく、両県を車で行き来していた。300キロ以上あり片道8時間はかかった。高速道路などを利用して頻繁に行き来していた。当時は運転だけは大丈夫なように感じていた。しかし数年たってからそれらの日々を思い出してつらい気持ちになることがあった。体調が危ない時もあった。実家で休みたかったがそれができる状態ではなかった。運転が危ない時もあった。休みながら走っていた。運転してる間だけは気がまぎれるのか孤独感が和らぐように感じていた。

1 『いつもと同じ光景、同じ世界のはずなのに。自分が世界から切り離されてしまったような感じがする。自分がこの世界の難民になってしまったように思える。世界も自分もイメージがつかめない。自分とってそこは新しい世界のような気もする。その混乱と怖さがあった。』

しかしT県に近づくとつらい気持ちがよみがえってきた。風景を見るだけでつらかった。抑うつ状態がひどかった。後期の授業が始まった。大学にいること自体にかなりの違和感があった。元から人間関係が悪かったし体調を崩しているのでそのせいかなと思った。なかば意地になっていたので続けて学校にいった。薬のおかげで夏の頃よりは楽になっているようだった。薬で感情が鈍くなっているようだった。以前と違って、院会で自分の立場をはっきり言うようになった。同じ立場の人間が他にいなくても発言した。そのことで関係が悪くなった人もいた。以前よりは風通しが良くなったが、人間関係が悪いことには変わらなかった。多勢に無勢であった。しかし、はっきり自分の意見をいえるようになったことは良かった。この時、自分を責めている限り自分にどんどん悪いしわ寄せが来る。自分を責めている限り対等に世の中が見えないと思った。

12月に作品『夜明け』が10日間くらいで制作した。これの出来が良かったのでやはり修了しようと決意した。T県の病院でも軽度のウツという扱いだった。(作品内容も以前の作品より画面に奥行きが出るようになった。自分が見ている風景が少し変わったように作品の中も少し変化していた。それは自分にとって願った変化、嬉しい変化だった。しかしそれと同時にこれまでの『10年間』の世界観について、人生について、否定したい気持ちが起きるのだ。2つの考え方がぶつかっているような感じなのだろうか)制作論文を書いて口頭試問を受けた。大学関係者に怒りの感情があった。それなので修了できると分かった時、何かしてやったという気持ちになった。学生や学校関係者に会うと以前のような親しみがまったく持てなかった。なぜ以前と違うように感じるのだろう?なぜ親しみが持てなくなってしまったのか?原因が分からなかった。やはり以前と自分が一致しないようだった。なぜ自分が入学してきたのだろうかとまで考えた。体調不良のことは、学校関係者には担当教官と年上の研究生には話した。しかしこの違和感を言葉にすることは未だできなかった。軽ウツのせいだろうか?論理性を身につけたためだろうか?大学院の人間関係のせいだろうか?と考えていた。あらゆる人と切り離されてしまった感があり、その混乱の中で大学院生活を送らねばならなかった。この苦悩に対して誰の共感も得ることが出来なかった。最終的に院2年生は20人いたがそのうちのほとんどを敵に回すような形になった。ひとりひとり会う分には問題はないが、集団になるとひとつの敵対的な冷たい意思を持っていた。そんな中で修了展の展示作業などを共同ですることは辛かった。無理をして修了までこぎつけた。地元に帰省する前日に気が緩んだのか何度も嘔吐した。 N大学はちょうど転換期の境目だった。それがあそこまで人間関係が難しくなり生活環境が厳しくなった。高校3年のことに感じた救いのなさ。周囲の人も家族も理解してくれないということ。その状況も再現されてしまった。しかし今度はなるべく話す努力はした。それでも分かってもらうのは難しかったのだが。

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