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⑤講師の頃

2001年から高校で美術の講師を二年間勤めた。教師は子供を相手にしているのでそれなりの振る舞いが求められると思った。大人としての自覚を持って接するように自分に言い聞かせていた。「自分はこれまでの困難を克服してきた」と自分に言い聞かしていた。実際そのようにも思っていた。

H高校は地方の小さな学校で、生徒も素朴だった。はじめての学校勤務でかなり戸惑った。初めはどう生徒と接していいか難しかった。
講師だったが授業だけでなく部活と副担任も任されていた。授業にかける熱意は強かった。美術の魅力を伝えたいという強い思いがあった。それで自分なりに教材を工夫して、授業の準備をしていた。
しかし、説明が足りないこともあった。物事を理詰めで話すのが難しかった。それでも、それを踏まえたうえでベストを尽くすしかないと思った。美術科なのでこういうものではないかとも思っていた。自分が高校のときの美術の時間も制作が中心だった。
生徒が作る作品は興味深かった。上手く関係を築けたとは言えないかもしれないが、生徒指導に対して熱意はあった。
自信の無さを勢いで補うような感じだった。何かが欠けていてそれを情熱や努力で必死に補おうとしていた。もっと自分はできるはずなにという思いはあった。

能力的なことで同僚に対する劣等感があった。しかし同時にどこか負けてはいないという自負もあった。劣等感や有能感が入り混じっていた。やはり対等な気持ちで接することができなかった。
H高校の教員は、居酒屋のアルバイトの時のような家庭的な雰囲気ではもちろん無いが、暖かい雰囲気だった。しかし教員同士というのはあまりお互いを見ていないとも思った。生徒の方を見ていて教職員同士はあまりお互いを見ていない。

3年生はデザインの選択授業もあったが、自分がまともにデザインの授業を受けたことが無かったので、自分も勉強しながらだった。
美大を受けるという生徒がいた。その生徒の指導に悩んだ。わたしは教育学部の受験経験しかなかったのでそういった経験が不足していた。またその生徒も真面目な性格ではなかった。
部活動は人数が少なく活気が無かったが途中から人数が少し増えて活発になっていった。

遠足、文化祭、いろいろな行事があった。当然のように毎日『先生』と言われた。そのことが快感でなかったわけではなかったが、あまり慣れてしまわないようにとは気をつけていた。しかし仕事は毎日のことなので、結局慣れていったのだろう。

会話が思うようにいかない、それが問題だった。当然、まったく話せないわけではない。美術室の隣の家庭科の教師に「もう少し話せればね…」と言われた。人と話す時も取りとめもなく枠組みのようなものがないようだった。そして最後まで同僚に対する劣等感は消えることは無かった。

送別会の時に、副担任をしていたクラスの教員からメモ書きで感謝の言葉をもらった。また、美術部員からプレゼントを貰った。三年の生徒から作品をもらった。しかしわたしは1年を通してあまり生徒と話さない教師だった。

3月下旬に教育委員会から常勤講師の声がかかった。この頃には、自分には高校教師は向いていないのではないかと思っていた。同時にそれを否定する気持ちもあった。どうにも自分の力がつかめない感じだった。それもあって、なかなか自分で決められなかった。
そこで大学の教官に相談したら「やるべきだ」と言われた。それは教育学部の教授なのだからその立場で言った意見だったのだろう。
しかし、やはり自分でよく考えて断ることにした。だが県の職員に「断ると採用試験がどうなるか分かりませんよ」と言われた。まだ採用試験を受ける気持ちがあったので、結局は勤務することにした。前の高校での一年間の経験もあるので、やれるのではないかという気持ちもあった。

2年目のM高校は1000人以上生徒がいる大きな学校だった。美術の教員はわたし1人だけだった。美術科の職員室は特別棟に離れたところにあり、その部屋にはわたししかいなかったので、孤独だった。職員はお互い干渉しない人間関係だった。この年度は校舎が改築中だった。新しく教室ができるため、物品を購入して設備を整えることも仕事だった。予算だけが決まっていてその内容がほとんど手付かずで、全部わたしが決めなくてはならなかった。予算が数百万はあった。講師に任せる仕事だろうか?…と思った。事務の人と何度も相談して決めていった。1学年の会計もしていた。学生寮の宿直もあった。

1年生は初めのうちは元気だった。しかし進学校のため勉強が厳しかった。朝は0限から授業があった。疲れている生徒も多かった。その影響も少なからずあって授業中に雰囲気が悪くなることもあった。また生徒数が多くてひとりひとりを把握しきれていなかった。
2年生は短期間の集中授業があった。3年生は選択の授業だけだった。美大・芸大を目指している生徒が十数名もいて、選択の時間はそのデッサンの練習だった。   
自分の力不足と、他の仕事の多さから、なかなか受験指導が上手くいかなかった。自分しか美術教師がいないので誰かに頼ることはできなかった。市内にあるデッサン教室に通っている生徒も多かった。美大・芸大を受験する場合、それは特に珍しくはないことではあるが、自分が役不足であることは明らかだった。自分の受験に対する知識があまりにも無いと感じた。自分が高校の頃は大学を受けるだけで精一杯だった。美術の教師もあまり指導に熱心ではなかった。
生徒の将来に関係しているのだから当然だが受験指導の責任を重く感じた。小論を頼まれた時、自信がなくて断った。途中で講師の話を受けたことは間違っていたのではないかと思った。悩んだが、途中で投げ出すのが嫌で、最後までやろうと決めた。
3年生は受験対策で県外の夏期講習に出かけた。男子で立体の上手な生徒がいた。この子は受験には失敗して予備校に入った。

部活動は部員が30名近くいた。部員が多くてH高校の時とは勝手が違っていた。生徒と上手く接することができるかどうかで、常に気負っていた。1年生の新入部員は10名近くいた。よく職員室に紅茶を飲みに来ていた。個性的な子が多かった。2年生は自主的に動く子達だった。3年生は秋の高校美術展までは部活動に参加した。それから後は受験に専念していた。部活動で青年の家などに何度か引率で出かけた。副顧問の先生についてきてもらった時は助けられた。高校美術展に出品した時に気付いたが、M高校の作品は他校の作品と比べて色彩が暗かった。

他の高校の美術教師との集まりが苦手だった。態度の大きい人ばかりだった。しかし飲み会には毎回出席していた。大きな学校だから責任を感じていた。
教員同士での飲み会はまったく面白くなかった。みんな仮面をつけて演じているようだった。
普段からも他の教師とは職員室も離れておりほとんど話さなかった。昼食は食堂か弁当だった。一人で食べることも多かった。

疲れてもう限界という時も、無理やり力を出して、それを繰り返すような感じだった。しかし無理をした次の日は調子がでなかった。調子が安定していなかった。途中、ストレスから物貰いができたり、胃が痛くなって検査を受けた。
相変わらず自分がつかめないような感じがしていた。それが仕事をする上で足枷になっていた。

自信の無さを振り切るように勢いだけで仕事をしていた。しかしどうしても埋められない穴があった。自分の矛盾を指摘するもう一人の自分の理性。そんな内面の声が聞こえたこともあっただろうか。

自分なりに生徒に向き合ってはいた。教師としての自覚だけは持とうとしていた。でもそれにはかなり無理があった。自分も意識できていない傷を抱えていた。当時の自分以上のものを自分に求めていた。

しかし、そういった無いものねだりをしないではいられない心情でもあった。

講師をしながら来年からの進路を考えてT県にあるN大学の大学院を受験した。『何かは分からないが自分には何か欠けている!』時間をかけてその問題をクリアにしようと思った。

送別会で事務の人から「迷惑をかけてすいませんでした」と言われた。自分は経験の無さからかこれくらいのことは当たり前と思っていたのだが…。周囲の人に対して理想的な面しか見られなかった。
生徒からできないことはできないといったほうがいいですよと言われた。
一年間の勤務が終了してみると不完全燃焼の感じだった。前年より生徒と接するのに慣れていたのは確かだが。生徒に悪いことをしたと感じた。もうこの町にいられないような気持ちになった。
 

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