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④大学生の頃〈外傷以後〉

地元のS大学に合格して入学した。教育学部だったがはっきり教師に成ると決めたわけではなかった。美術専攻だったので絵も描けるだろうとも思った。地元の大学を志望したのは親に負担をかけないためでもあった。

入学式の時、坊主頭で恥ずかしかった。入学したものの、心の中は症状のことでいっぱいだった。外見が気になって人に会うのがためらわれた。学校のトイレで自分の姿を鏡を見ては落ち込んでいた。研究室に行って人に会うのも勇気をふりしぼってだった。
また、人に接していても相手を信じることが難しいと感じていた。自分を信じることもできなかった。それもあり人とのコミュニケーションが上手くいかなかった。精神的にかなり屈折していた。後から思い出すと、自分の中に触れられない所ができたようだった。そこを守るため周りに壁を張り巡らしていたのではないだろうか。

大学では4年間を通して1人でいる場面が多かった。作品制作も教室でひとりでしていた。他の研究生に対してなかなか打ち解けられなかった。みんな受験勉強から開放されて学生生活への喜びに胸を躍らせているのに、自分だけが違う人間のような気がした。

炎症の痛みもひどくて大学生活にまるで集中できず、半年ほどでいかなくなった。教官に理由を話したが、「わたしは医者ではないから」と言われた。半年間を休んで、翌年の一年間は休学を申請した。

休んでいる間に漫画を書いた。高校生の頃から書こうと思っていた。数ヶ月かけて32ページを書いたが、読み直してみて納得できず、結局は投稿しなかった。内容は裏切られた悲しみや他人との心のぶつかり合いを書こうとしていた。主人公たちの感情的なやり取りだけで物語りは進んでいった。すじ道を立ててストーリーを組み立てることが容易でなかった。そういう力を発揮できなかった。また、何事もあきらめようとする姿勢があった。漫画を書くのはこれだけでやめてしまった。

(感情を否定しているわけではない。自分が持っている感情や発想の力のおかげでこの時期を生きていくことができたのだから。それも自分らしさに違いない。)

いつの頃からか『夢』を持たなくなった。そんなもの無駄だと思っていた。人にもそう語っていた。

実際、わたしには先の見通しというものがなかった。ただ何となく目の前に『壁のようなもの』を感じておりそれを乗り越えたかった。言うなれば、それがわたしの『夢』だった。そのための向上心はものすごく強かった。そのために色々なアルバイトにも挑戦した。ただ具体的には先のことが見えてこない状態だった。

またこの頃からだろうか。いつも何かに怒っていた。家族に対しても怒りをぶつけていた。

また日常のことができないことがあった。銀行で手続きのため書類を書くことさえ難しいことがあった。書類を書いているだけで汗が出てきた。ビデオ屋でアルバイトをした時、新規でカードを作る説明ができない気がして一週間で辞めてしまった。高校であれほど難しい課題を解いていながら、劣等感の塊のようになっていた。何ごとも人並みにできないという思いがあった。
また今が暑いのか寒いのか、そういった身体感覚が分からないこともよくあった。
また関係があるのかよく分からないが、擦り傷などの傷口がなかなか治らなかった。ストレスで体が弱ってしまったのかと思っていた。
外見を気にして、外出の時はいつも帽子をかぶっていた。人の家に上がった時も被っていたこともあった。

親はそんなわたしの様子にあまり関心がないようだった。どうしていいのか分からなかったのかもしれない。わたしに対して屈折した思いがあったのかもしれない。自分も長女として特別に躾けられていた。わたしの容姿が父親に似ていた。原因ははっきりとは分からない。とにかくわたしには触れなかった。

大学生の頃、高校の頃に通っていた皮膚科に再び訪ねていったことがあった。「なぜあんな強い薬を処方したのだ」という怒りの気持ちだった。久しぶりに行くと病院の人たちの態度は変わっていた。以前は声をかけてくれていた看護婦は無視をするような感じだった。すごく冷たい感じがして嫌だった。院長は様子が変だった。独り言みたいに新聞の批判だとか患者が少ないだとか言っていた。数年たってからその医者は癌で死んだと聞いた。

このままでは自分は本当にダメになると思った。自分を成長させたいと思った。人と向き合えるようになりたかった。大学に復学もする気持ちもあった。

翌年の春から小学校の児童クラブでアルバイトを始めた。自分としては人とふれあうこと自体を仕事にするのはすごいチャレンジだった。子どもとふれあうと久しぶりに人と接した気持ちになった。仕事は、調子が良かったり悪かったりして不安定だった。また子どもと接することが器用にできないこともあった。でも子どもは一人ひとり個性があってそれが楽しかった。子どもの遊び相手を自分なりに楽しんでしていた。

しばらくして外出する時に帽子を取るようなった。久しぶりに帽子を取って外に出かけたら、すごく空がまぶしくて驚いた。もう帽子はかぶらなくなった

大学に復学して一年下の人たちと同級生になった。しかし人付き合いが上手くできなかった。強い劣等感が消えなかった。相手と自分の間に越えられないような溝があるように感じていたと思う。
常に仲間に入れないことへの怒りと不満の気持ちを抱いていた。

また何かを説明するにしても論理立てて話すことができなかった。

2回生の時に教育実習に行った。実習担当の教師から『話の内容に繋がりがない。接続語がない』という指導を受けた。しかしそういった素養は自分には無いものであって、育てることができるとは思えなかった。

大学生活を送りながらも、もっと人や社会と交わりたいという気持ちになった。後から考えればそれは欠けたものを埋めたいという気持ちでもあった。
居酒屋でアルバイトをはじめた。依然として劣等感の塊で人と対等に接することができなかった。しかしそこのスタッフの人たちは暖かかった。その場所で初めて集団の中で自分が出せた。人を笑わせたり話を一緒にすることが楽しい自分に気が付いた。ここまで人に優しくしてもらったのも初めてだった。スタッフと将棋をしたり飲みにいったりした。そうしてゆっくりと自分というものが理解されていった。また接客業だと割り切って人と話すこともできた。
アルバイトをはじめて明るくなっていったが、なにかわたしには自信が欠けていた。伝票を書くだけでも難しいと感じていた。卑屈になっているような心が曲がっているような状態だった。それなので本来の自分ではないように感じていた。自分に『欠けているもの』を勢いで補っているような感じだった。そして、自分に『欠けているもの』は簡単には埋めることは出来ないとも感じていた。
「もっと自分はできるのに・・・」しかし、それが出せていないと思った。病気をしたことに原因があるような気がしていた。スタッフの人と遊ぶのだが「あまり話さないですよね」と言われた。

家族のことは、もちろん問題はあるが、それなりに普通の家族だと思っていた。まだ家族のことを信じたい気持ちが強かった。

卒業研究に初めは美術理論を専攻していたが、教授に制作のほうが向いているのではないかと言われ、わたしもそう思ったので専攻をデザインに変えることにした。

すじ道を立てて物事を考えることが苦手だと思っていた。作品制作はとりとめもなかった。作品の方向性があっちに行ったりこっちに行ったりしていて、一貫したものがないようだった。また、制作していても、はじめから内容を諦めているところがあった。『もうこれ以上、どうしようもない。これが限界。』卒業制作は出来としては半端な物になってしまった。

一部を除き大学の人たちと打ち解けることができなかった。研究室の人に対して対等に接することが難しかった。自分でもなぜそれができないのかが大きな悩みだった。子どもの頃から引っ込み思案でだったり上手く表現できないことはあったが、そういう次元ではなくこの頃には対等に人と接することが自分の一番の課題になっていた。相手と自分の間に溝があるような感じだったと思う。

自分が感じている『壁』を乗り越えたいという抽象的な目標はあった。しかし現実的に卒業後の進路はまったく決めていなかった。

居酒屋で準社員にならないかと誘われたが断った。そこのスタッフは一年間通して休みはほとんどない。自分の絵の制作ができないとも思った。そして何より、自分に『今は本来の自分じゃない』という思いがあった。自分に対して可能性も感じていたし、何かが欠けているようにも感じていた。
こういった選択をどちらかと言えば感覚的に決めているように思えた。理詰めでものごとを考えることは苦手だと思っていた。

翌年の2月に約1か月間、ひとりで欧州へ旅行にいった。旅で自分を変えたかった。旅で孤独を感じたいと思った。しかし、おかしなことに自分の孤独を感じるのが難しかった。実際にひとりになると淋しいような、そういう感覚が麻痺しているような感じだった。それなのでなるべく人と関わらず独りになろうとした。旅行は計画無しで行き当たりばったりだった。ヤケクソな気持ちにもなっていた。
この旅で自分が心に抑えつけているものを、浮かび上がらせたかったのだろうか。しかしそれはまだ叶わない願いだった。その作業は一ヶ月の旅程度では無理だったのだ。

仕事は、教員にならないのなら何をするのか考えて、介護の仕事をしようと思った。そこで老人ホームのデイサービスでボランティアをした。お年寄りと話すのはなかなか難しかった。

4月から特別養護老人ホームに就職した。仕事をしていても、自分の調子が安定しなかった。居酒屋でもそうだったが、自分がどういうキャラクターなのか、つかめなくて苦労していた。周囲の人ともなかなか関係を築けなかった。結局、5ヶ月で辞めた。介護職は自分には合わないと思った。スタッフにも仕事が楽しくないのが見て分かると言われた。夏に教員採用試験を受けた。やはり美術の教員になろうと思った。

この頃、母親とぶつかることが多かった。母に支配されている気がした。母の存在がけっしてプラスにばかり働いているわけではないと考えていた。25歳の誕生日をむかえる数日前に1人暮らしをはじめた。居酒屋は辞めてからは、1度くらいしか訪れなかった。過去とのつながりを捨てていくような態度だったと思う。

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