③高校生の頃
中学3年の終わりか高校1年の時だったかに、通院する病院を変えた。自転車で20分くらいかかる橋を越えていく遠い病院だった。
そこで50歳くらいの男性の医師に会った。その医師から塗り薬のステロイド剤を処方された。子どもだったわたしは特に疑問も待たずに医師に言われたままそれを使い始めた。
後に知ったが、その薬は表面的な炎症を抑えるだけで根本的な治療にはならないし、副作用の強いものだった。
その医師は優しく親切だった。家族の中に話を分かってくれる人がいなかったので、よけいにこの医師を信用したい気持ちが強かったのだろう。この医師に父親像を求めていたのだろうか。
その医師にすすめられるままにステロイド剤を4年間使った。
高校はいわゆる進学校で、ほとんどの生徒が勉強に励んでいた。朝からずっと勉強尽くしの学校生活だった。
私はクラスでは1人でいることが多かった。自分から話しかけるのが苦手だった。人と話したいという思いもあっただろうがそれをどういうふうにすればいいか分からなかった。それなので昼休みを1人図書館で過ごすことも多かった。また、同級生に『自分は独りぼっちでもかまわない』と言って引かれたこともあった。孤独を抑えつけていたのだろうか。
授業中の態度もあまり良いものではなかった。部活は美術部に所属していた。放課後のその時間は仲間と話したり制作したりして楽しかった。唯一、心が和む時間だった。
1年のときは、薬が効いていたので見た目に症状は分からなかった。しかしかゆみや脱毛があり症状のことが頭から離れなかった。でもその頃はとくに誰かに相談することはなかったと思う。
2年くらいからか、あまり薬が効かなくなってきた。日に当たると炎症がひどくなるので登下校はなるべく日陰を歩くようにした。炎症で頭が痛いので帰ってすぐに冷たいシャワーを浴びた。そういった状態が毎日続いた。そのうち学業に集中できなくなってきた。
医師に髪の毛が抜けて辛いことも訴えたが、『どうということはない』と理解されなかった。
母親は薬を頭に塗ってくれたが、ただ言われるままにしているだけだった。話してもあまりとりあってくれなかった。命に関わる病気ではないと軽く見られていた。
当時の自分の知恵では、この病気にどのように対応すればいいのか分からなかった。とにかく治すしかない。それしか解決しようがないと思った。
当時のわたしはこの世には不幸のブラックホールみたいなものがあると思った。そちらに転がりだしたら、よっぽど踏ん張らないと止まらないように思えた。
しかし他の人にこのことをあまり話さなかったと思う。いつも辛いことを我慢するほうだった。人に弱音はくことが苦手だった。
また自分に非があるのだという気持ちが強かった。
結局、誰も助けてはくれないという思いもあった。
同級生は恋愛や勉強に忙しそうで自分とは次元の違う悩みを抱えているように見えた。しかし実際にはわたしは他の人のことをそれほど深くは知らなかったと思う。
3年のとき、学園祭で大きな看板の制作をした。そういったみんなと目的を持って準備作業をすることは楽しかった。症状を気にしながらもなるべく楽しもうとしていた。
3年の終わり頃には、薬がほとんど効かなくなった。また副作用が強いことも母の知人から知った。それで使用を止めた。そうすると、リバウンドで炎症はいっそうひどくなった。皮膚は炎症でめくれて髪が大量に抜け落ちた。フケも大量に出た。頭を洗って清潔にしていてもすぐにフケが出てしまった。炎症の痛みもつらかったが、見た目が不潔になるのが思春期の自分には耐えられなかった。自分で自分の容姿を見るのがつらかった。
医師に裏切られた思いがした。なぜわたしにこんなに副作用の強い薬を処方したのか?その医師に対する信頼を踏みにじられた思いだった。
そして家族も私のことを信用していなかった。わたしの病気を重要なことだと思っていなかった。自分の家族は力になってくれる存在ではなかった。もう何を信頼すればいいのだという気持ちだった。
その医師の病院には行かなくなった。
本心は誰か助けてほしい!という気持ちだった。だがその誰かは現実にはいないように思われた。誰もわかってはくれなかった。
これがきっかけで、それまでに経験したことがない強い人間不信になった。自分も他人も信じることをこころができなくなっていった。
同級生は受験の追い込みに夢中になっていた。自分だけが、分かりづらい病気の悩みを抱えて周囲から浮いているような気がした。
心の中は受験どころではなかったが、現実には受験間近で勉強しないわけにはいかなかった。もともとのまじめな性格がたたり無理をして勉強していた。
だんだんと髪が抜けて自分の容姿が変化していくのを見るのはつらかった。3年の終わりの頃、思い切って髪の毛を全部そった。そうしないと受験に集中できなかった。
外出する時は帽子をかぶるようになった。
『自分は人とは違うんじゃないか…』という思いがした。わたしの自信は失われていった。
いつの間にか、人が自分から離れていくように感じた。
卒業間際にクラスのみんなでカラオケにいった。わたしは室内でも帽子を被って、元気を出そうにも出せない感じだった。この間まで話していた女子が避けているようだった。あまり口をきいてくれなくなったように思えた。悲しかったがどうしようもないという思いだった。
それでも一応は生活をしていけたのは、数少ないが友達がいたからだった。
他の病院にもいくつかあたってみたがステロイドの使用をすすめられるだけだった。
ある夜、悔しくて悔しくて風呂場の壁をがんがん殴っていた。だけど誰も気に留めない。『あの子は特別だから。あの子が特別悪いから』兄弟もそれに従うだけ。わたしは1人で誰にも届かない声をあげていた。
また薬はいきなり止めることはできないと分かったので、この頃はまだ少しは薬を使っていた。
大学受験は、ひたすら暗記するのみでそれ以上学びを深めていく余裕はなかった。中学校、高校は思考力を高めていく時期だと思う。しかし、わたしの家庭の教育力にそれは望めなかった。また当時の学校の勉強は暗記の詰め込みが主だったので、あまり望めなかった。
それなので学問を深めていくのは個人の努力や家庭の教育力にかかっていた。
しかし自分の中に論理性の目覚めのようなものはあったと思う。自分にとって高校時代は家族について客観的に考えられるはずの時期だったのかもしれない。考える力や精神力もついてきていた。しかしその力は辛い現実を自分の意識から切り離すことに使われたのではないだろうか。その時の自分を守るために使われたのではないか。
現実とは、自分の家族に私の居場所はないということだった。それは抑えつけなくてはならない思考だった。その思考をするということは当時のわたしにとってはあまりにつらいことだったと思う。
自分の中に描いている理想だけを信じていたかった。自分に非があるのだと思うことで家族のことを信じようとしていた。『自分ががんばれば何とかなるかも。自分が理想に近づければ状況が変わるかも…。』しかし、その理想の家族と現実の家族との距離は離れていく一方だったのだろう。
そのことに気付いている私の一部は、心の奥底に押し込められていったのではないか。外見ばかりを気にしていたが、このとき自分の内面で何が起こっているかまでは意識がいかなかった。
平易な言葉で言えば、この高校時代に、毎日精一杯やっていたのだが、多くのものを喪失していた。当時、自分が意識している以上にその喪失は大きかった。そしてその後、それを埋めようと懸命にもがくのだった。だがそれは無理な話だった。喪ったものは戻らないのだ。 それから、わたしが喪ったものについて共感できる誰かを探そうとしていたのだろう。
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