<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/">

<channel rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/">
<title>ナラティヴ部屋</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/</link>
<description>自分の人生を作品に。</description>
<dc:language>ja-JP</dc:language>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:date>2008-07-11T22:34:19+09:00</dc:date>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.typepad.com/" />


<items>
<rdf:Seq><rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_761a.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_fda6.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/m_b08d.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_01b5.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_ba0d.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_8d19.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_171c.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/n_acce.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_06e8.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/m_db10.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/cptsd_4d03.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_66fd.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_c517.html" />
</rdf:Seq>
</items>

</channel>

<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_761a.html">
<title>はじめに</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_761a.html</link>
<description>『ナラティヴ部屋～自分の人生を作品に。』は、管理人ナガが自分の人生を語る（ナラテ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『ナラティヴ部屋～自分の人生を作品に。』は、管理人ナガが自分の人生を語る（ナラティブ）ことによりＣ-ＰＴＳＤ（複雑性PTSD）を克服しようとするページです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;C-PTSDでは、昔の心の傷が年月がたってから症状として現れることがあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;過去の記憶を作品のようにつづることで、より人生を客観視して、自分のものにしようと思いました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;物語（記事①～⑨）はだいたい時系列にそって書かれてあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(注意)あなたが、わたしの物語を読むことで万が一、気分が悪くなるようなことがあるかもしれません。そのときはすぐに読むのを中止してください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;では、もしよろしければご一読ください。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-07T23:28:16+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_fda6.html">
<title>①幼稚園・小学生低学年の頃〈外傷以前、外傷体験〉</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_fda6.html</link>
<description>　幼稚園の頃は無口な子どもだった。あまり自分からは人に話しかけない。男の子にあり...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　幼稚園の頃は無口な子どもだった。あまり自分からは人に話しかけない。男の子にありがちなように虫採りが好きだった。幼稚園の頃だったと思うが、両親が激しくケンカしている光景を覚えている。母親のほうが大声で何やら言っていて父親はあまりしゃべらず下を向いて椅子に座っていた。母親が瓶を投げつけてそれが割れていた。わたしはその場を和まそうとしたのか妹に変な服の着せ方をして笑わそうとした。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;よく覚えていないが、父親はだんだんと家に帰らなくなったのだと思う。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;幼稚園の途中で県内のＫ市に引っ越した。幼稚園年長組の頃には家に父親が完全に不在だった。しかし父親がいなくなって淋しかったという記憶はあまり無い。母にそのことを訊ねたことはあったと思う。でも聴いてはいけないことのようにも感じていたと思う。Ｋ市ではあまり友達もいなかった。学校に通う道が分からなくて近所の上級生の後ろをついて行ったことがあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;小学１年の途中で県内のＡ市に引っ越した。A市の頃のことは良く覚えている。住んでいた所や学校の友達。みんなと遊ぶというよりは1人の友達と遊ぶことが多かった。&lt;br /&gt;小学校の頃、視力検査があった。わたしは目の前にあるＣみたいな、一部が欠けた円の意味が分からず適当に対応していた。その結果、視力回復センターという施設に電車を乗り継いで通うことになった。自分の意思を伝えるのが苦手だった。ぼーっとしているような感じで、あまりしっかりした子どもではなかったように思う。&lt;br /&gt;小学2年の頃から、家族の中でわたしへの風当たりが強くなっていったのだと思う。&lt;br /&gt;母が知り合いの子どもとわたしを比較することが多くなった。「あそこの子は円の面積が求められる。ピアノが弾ける」わたしは何で自分はできないのだろうと悔しかった。母に自分が認めてもらうことをよく想像していた。しかしなかなかそれは実現しなかった。結果、自分は勉強ができないと思い込んだ。この頃から自分の力をあきらめるような感じがあったのだろうか。&lt;br /&gt;父親に最後のあったのも小学2年の時だったと思う。祖父のマンションの駐車場で会った。久しぶりだった。その場には母も妹も弟もいた。父は大きなバイクにまたがっていた。あまり父親という感じはしなかった。&lt;br /&gt;小学2年の時に両親が離婚した。この離婚はよい形では行われなかったため、母は傷ついたことだろう。また母とその両親の関係もよくはなく精神的な支援もほとんどなかったようだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;離婚しても苗字は父方のままだった。それは別れる際に苗字の変更期限を過ぎていたことや母方の両親との関係がよくなかったことが原因だろう。とにかく家としては、父方でもなく、付き合いがあるのは母方なのに苗字は父方なので、存在として宙ぶらりんな感じだった。&lt;br /&gt;母方の親戚にはお互いを助け合うような考え方がなかった。表面上は分からないが、仲があまりよくなかった。お互い干渉しなかった。私に対して父のことで触れる人はいなかった。&lt;br /&gt;当時から、自分の上に頼りになる男性がいないと感じていた。母方は女性の親戚が多かった。母は3人姉妹、祖母は4人姉妹だった。母方の祖父は遠慮がちな人で、踏み込んだことは言わなかった。わたしが中学1年の頃に亡くなった母方の曾祖父のことを唯一男らしい人だと感じていた。&lt;br /&gt;ある日、母がデパートへ買い物にわたし1人を連れていった。母はお金を持って、すごく無駄遣いしていたが、たまにはこういうことも必要だと言っていた。そういった健気な母の姿も記憶にある。&lt;br /&gt;３学期が終わり、母の郷里であるＳ県に引っ越した。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T02:50:26+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/m_b08d.html">
<title>②小学生の頃(M市に引っ越してから)</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/m_b08d.html</link>
<description>母方の実家からは離れたＭ市内のマンションが新しいわが家になった。この部屋は父方の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;母方の実家からは離れたＭ市内のマンションが新しいわが家になった。この部屋は父方の祖父が購入したものだった。父とは会わなくなったが、祖父とは付き合いがあった。祖父には1年に1度は旅行にも連れていってもらった。それはわたしが高校生になるころまであった。&lt;br /&gt;わたしは変わらずおとなしい子だった。あまり外側に世界に眼が向いてなく、ぼ～っとしていた。&lt;br /&gt;3年か4年の頃、同級生からいじめをうけた。下校中に後ろから石が飛んできたり、からかわれたりした。おとなしいのでそういう対象になりやすかった。しかし友達は何人かいて1人ということはなかった。&lt;br /&gt;勉強はできなかった。スポーツも水泳以外は得意でなかった。ほとんどのことに対して苦手意識が強かった。&lt;br /&gt;また、自分の考えを表すのが苦手だった。何かが思い浮かんでもそれを胸の中に隠してしまう傾向があった。&lt;br /&gt;依然として母は何かとわたしのことを厳しく責めることが多かった。「妹は記憶力もすごい」妹ともよく比較された。妹もさすがに「お母さんは私と弟よりお兄ちゃんばかりを責めている」と言っていた。&lt;br /&gt;後に知ったが、母も両親から長女ということで他の姉妹とは違う躾を受けていた。わたしに対しての態度は妹や弟とのものとは違っていたのはそのせいもあるだろう。　また、わたしの容姿が父親に似ていたのも関係があるのだろうか。父に対する怒りや不満がわたしに向かったのだろうか。母の父に対しての悪口は聞いたことがない。&lt;br /&gt;また、母は自分が父親の分も自分が家庭のことをやらなくてはならないという気負いもあっただろう。&lt;br /&gt;母はすじ道を立てて物事にあたるほうではなかった。それなので家の中での話し合いはいつも感情的なものになった。家庭の中には論理性を育てるような土壌はなかったと思う。&lt;br /&gt;しかし漫画や映画など文化的なものに対しては理解があった。&lt;br /&gt;わたしは父がいなくなったことは、初めはしょうがないという気持ちだったと思う。それがいつの頃からか考えたくないという気持ちになっていた。そして関心そのものがなくなっていった。&lt;br /&gt;家の中でどんなに肩身が狭くなってもわたしは目の前にある自分の家族を信じたかった。母からどんなに責められても、自分の家族を大切にしたいと考えていたと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:41:22+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_01b5.html">
<title>③中学生の頃</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_01b5.html</link>
<description>自分は勉強ができないと思っていたが、１年の定期テストでたまたま高い点数を取った。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;自分は勉強ができないと思っていたが、１年の定期テストでたまたま高い点数を取った。それで勉強がある程度はできるということを知った。中学の時は丸暗記ではあったが一生懸命に勉強した。部活動は水泳部に入っていた。部活仲間もいて楽しかった。ハードな練習もがんばった。&lt;br /&gt;家の中では母に何かと責められることが多かった。私の反論はあまり母には通じなかった。口げんかになってもこっちの主張がまるで通じてないようだった。筋の通った話し合いではなく、感情的なぶつかりあいになった。&lt;br /&gt;そして家族の中に誰か味方がいるわけではなかった。家の中に自分の話を聞いてくれる人間がいなかった。&lt;br /&gt;また元々、わたしは自分のことをあまり大っぴら話さない性格でもあった。&lt;br /&gt;わたしにとって家の雰囲気はぴりぴりしていたのだと思う。家は自分を出せる場ではなかった。自分らしさを抑えていなくてはならなかった。&lt;br /&gt;いつの頃からか、自分が信用されていない感じで、それが家族の中に浸透していた。自分のことが軽く見られていて、認めない態度が家族全員にあった。毎日がそうであれば、自分自身も自分のことそう思うようになっていったのだろう。&lt;br /&gt;それでも、わたしは家族に対して優しさの気持ちがあった。父親がいなくなってからの大変さを知っているからもあったと思う。自分が長男だからしっかりしたいという気持ちもあった。&lt;br /&gt;それなりに毎日を送りながらも胸の中には鬱屈したものがあった。担任の教師から「目が死んでいるよ」と言われた。&lt;br /&gt;高校受験に向けての勉強も大変だった。生活の中でストレスを感じることが多かった。&lt;br /&gt;３年の秋頃に脂漏性湿疹になった。初めは手首に炎症ができただけだった。脂漏性湿疹はアトピーほど一般には知られていなかった。また、これといって効果的な治療もないようだった。近くの皮膚科で軟膏をもらった。&lt;br /&gt;しかし頭にもできるようになり、その炎症のために髪が抜けた。中学生の自分にはそれがすごくショックだった。悲しかった。この症状は日々のストレスが体に表れではないだろうか。口から吐き出せない鬱屈した思いが体に表れていたのではないだろうか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:48:28+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_ba0d.html">
<title>③高校生の頃</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_ba0d.html</link>
<description>中学3年の終わりか高校1年の時だったかに、通院する病院を変えた。自転車で20分く...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;中学3年の終わりか高校1年の時だったかに、通院する病院を変えた。自転車で20分くらいかかる橋を越えていく遠い病院だった。&lt;br /&gt;そこで50歳くらいの男性の医師に会った。その医師から塗り薬のステロイド剤を処方された。子どもだったわたしは特に疑問も待たずに医師に言われたままそれを使い始めた。&lt;br /&gt;後に知ったが、その薬は表面的な炎症を抑えるだけで根本的な治療にはならないし、副作用の強いものだった。&lt;br /&gt;その医師は優しく親切だった。家族の中に話を分かってくれる人がいなかったので、よけいにこの医師を信用したい気持ちが強かったのだろう。この医師に父親像を求めていたのだろうか。&lt;br /&gt;その医師にすすめられるままにステロイド剤を4年間使った。&lt;br /&gt;高校はいわゆる進学校で、ほとんどの生徒が勉強に励んでいた。朝からずっと勉強尽くしの学校生活だった。&lt;br /&gt;私はクラスでは1人でいることが多かった。自分から話しかけるのが苦手だった。人と話したいという思いもあっただろうがそれをどういうふうにすればいいか分からなかった。それなので昼休みを1人図書館で過ごすことも多かった。また、同級生に『自分は独りぼっちでもかまわない』と言って引かれたこともあった。孤独を抑えつけていたのだろうか。&lt;br /&gt;授業中の態度もあまり良いものではなかった。部活は美術部に所属していた。放課後のその時間は仲間と話したり制作したりして楽しかった。唯一、心が和む時間だった。&lt;br /&gt;１年のときは、薬が効いていたので見た目に症状は分からなかった。しかしかゆみや脱毛があり症状のことが頭から離れなかった。でもその頃はとくに誰かに相談することはなかったと思う。&lt;br /&gt;2年くらいからか、あまり薬が効かなくなってきた。日に当たると炎症がひどくなるので登下校はなるべく日陰を歩くようにした。炎症で頭が痛いので帰ってすぐに冷たいシャワーを浴びた。そういった状態が毎日続いた。そのうち学業に集中できなくなってきた。&lt;br /&gt;医師に髪の毛が抜けて辛いことも訴えたが、『どうということはない』と理解されなかった。&lt;br /&gt;母親は薬を頭に塗ってくれたが、ただ言われるままにしているだけだった。話してもあまりとりあってくれなかった。命に関わる病気ではないと軽く見られていた。&lt;br /&gt;当時の自分の知恵では、この病気にどのように対応すればいいのか分からなかった。とにかく治すしかない。それしか解決しようがないと思った。&lt;br /&gt;当時のわたしはこの世には不幸のブラックホールみたいなものがあると思った。そちらに転がりだしたら、よっぽど踏ん張らないと止まらないように思えた。&lt;br /&gt;しかし他の人にこのことをあまり話さなかったと思う。いつも辛いことを我慢するほうだった。人に弱音はくことが苦手だった。&lt;br /&gt;また自分に非があるのだという気持ちが強かった。&lt;br /&gt;結局、誰も助けてはくれないという思いもあった。&lt;br /&gt;同級生は恋愛や勉強に忙しそうで自分とは次元の違う悩みを抱えているように見えた。しかし実際にはわたしは他の人のことをそれほど深くは知らなかったと思う。&lt;br /&gt;3年のとき、学園祭で大きな看板の制作をした。そういったみんなと目的を持って準備作業をすることは楽しかった。症状を気にしながらもなるべく楽しもうとしていた。&lt;br /&gt;3年の終わり頃には、薬がほとんど効かなくなった。また副作用が強いことも母の知人から知った。それで使用を止めた。そうすると、リバウンドで炎症はいっそうひどくなった。皮膚は炎症でめくれて髪が大量に抜け落ちた。フケも大量に出た。頭を洗って清潔にしていてもすぐにフケが出てしまった。炎症の痛みもつらかったが、見た目が不潔になるのが思春期の自分には耐えられなかった。自分で自分の容姿を見るのがつらかった。&lt;br /&gt;医師に裏切られた思いがした。なぜわたしにこんなに副作用の強い薬を処方したのか?その医師に対する信頼を踏みにじられた思いだった。&lt;br /&gt;そして家族も私のことを信用していなかった。わたしの病気を重要なことだと思っていなかった。自分の家族は力になってくれる存在ではなかった。もう何を信頼すればいいのだという気持ちだった。&lt;br /&gt;その医師の病院には行かなくなった。&lt;br /&gt;本心は誰か助けてほしい！という気持ちだった。だがその誰かは現実にはいないように思われた。誰もわかってはくれなかった。&lt;br /&gt;これがきっかけで、それまでに経験したことがない強い人間不信になった。自分も他人も信じることをこころができなくなっていった。&lt;br /&gt;同級生は受験の追い込みに夢中になっていた。自分だけが、分かりづらい病気の悩みを抱えて周囲から浮いているような気がした。&lt;br /&gt;心の中は受験どころではなかったが、現実には受験間近で勉強しないわけにはいかなかった。もともとのまじめな性格がたたり無理をして勉強していた。&lt;br /&gt;だんだんと髪が抜けて自分の容姿が変化していくのを見るのはつらかった。3年の終わりの頃、思い切って髪の毛を全部そった。そうしないと受験に集中できなかった。&lt;br /&gt;外出する時は帽子をかぶるようになった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『自分は人とは違うんじゃないか…』という思いがした。わたしの自信は失われていった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いつの間にか、人が自分から離れていくように感じた。&amp;nbsp; &lt;br /&gt;卒業間際にクラスのみんなでカラオケにいった。わたしは室内でも帽子を被って、元気を出そうにも出せない感じだった。この間まで話していた女子が避けているようだった。あまり口をきいてくれなくなったように思えた。悲しかったがどうしようもないという思いだった。&lt;br /&gt;それでも一応は生活をしていけたのは、数少ないが友達がいたからだった。&lt;br /&gt;他の病院にもいくつかあたってみたがステロイドの使用をすすめられるだけだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ある夜、悔しくて悔しくて風呂場の壁をがんがん殴っていた。だけど誰も気に留めない。『あの子は特別だから。あの子が特別悪いから』兄弟もそれに従うだけ。わたしは1人で誰にも届かない声をあげていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また薬はいきなり止めることはできないと分かったので、この頃はまだ少しは薬を使っていた。&lt;br /&gt;大学受験は、ひたすら暗記するのみでそれ以上学びを深めていく余裕はなかった。中学校、高校は思考力を高めていく時期だと思う。しかし、わたしの家庭の教育力にそれは望めなかった。また当時の学校の勉強は暗記の詰め込みが主だったので、あまり望めなかった。&lt;br /&gt;それなので学問を深めていくのは個人の努力や家庭の教育力にかかっていた。&lt;br /&gt;しかし自分の中に論理性の目覚めのようなものはあったと思う。自分にとって高校時代は家族について客観的に考えられるはずの時期だったのかもしれない。考える力や精神力もついてきていた。しかしその力は辛い現実を自分の意識から切り離すことに使われたのではないだろうか。その時の自分を守るために使われたのではないか。&lt;br /&gt;現実とは、自分の家族に私の居場所はないということだった。それは抑えつけなくてはならない思考だった。その思考をするということは当時のわたしにとってはあまりにつらいことだったと思う。&lt;br /&gt;自分の中に描いている理想だけを信じていたかった。自分に非があるのだと思うことで家族のことを信じようとしていた。『自分ががんばれば何とかなるかも。自分が理想に近づければ状況が変わるかも…。』しかし、その理想の家族と現実の家族との距離は離れていく一方だったのだろう。&lt;br /&gt;そのことに気付いている私の一部は、心の奥底に押し込められていったのではないか。外見ばかりを気にしていたが、このとき自分の内面で何が起こっているかまでは意識がいかなかった。&lt;br /&gt;平易な言葉で言えば、この高校時代に、毎日精一杯やっていたのだが、多くのものを喪失していた。当時、自分が意識している以上にその喪失は大きかった。そしてその後、それを埋めようと懸命にもがくのだった。だがそれは無理な話だった。喪ったものは戻らないのだ。　それから、わたしが喪ったものについて共感できる誰かを探そうとしていたのだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:51:34+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_8d19.html">
<title>④大学生の頃〈外傷以後〉</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_8d19.html</link>
<description>地元のS大学に合格して入学した。教育学部だったがはっきり教師に成ると決めたわけで...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;地元のS大学に合格して入学した。教育学部だったがはっきり教師に成ると決めたわけではなかった。美術専攻だったので絵も描けるだろうとも思った。地元の大学を志望したのは親に負担をかけないためでもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;入学式の時、坊主頭で恥ずかしかった。入学したものの、心の中は症状のことでいっぱいだった。外見が気になって人に会うのがためらわれた。学校のトイレで自分の姿を鏡を見ては落ち込んでいた。研究室に行って人に会うのも勇気をふりしぼってだった。&lt;br /&gt;また、人に接していても相手を信じることが難しいと感じていた。自分を信じることもできなかった。それもあり人とのコミュニケーションが上手くいかなかった。精神的にかなり屈折していた。後から思い出すと、自分の中に触れられない所ができたようだった。そこを守るため周りに壁を張り巡らしていたのではないだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大学では4年間を通して1人でいる場面が多かった。作品制作も教室でひとりでしていた。他の研究生に対してなかなか打ち解けられなかった。みんな受験勉強から開放されて学生生活への喜びに胸を躍らせているのに、自分だけが違う人間のような気がした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;炎症の痛みもひどくて大学生活にまるで集中できず、半年ほどでいかなくなった。教官に理由を話したが、「わたしは医者ではないから」と言われた。半年間を休んで、翌年の一年間は休学を申請した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;休んでいる間に漫画を書いた。高校生の頃から書こうと思っていた。数ヶ月かけて32ページを書いたが、読み直してみて納得できず、結局は投稿しなかった。内容は裏切られた悲しみや他人との心のぶつかり合いを書こうとしていた。主人公たちの感情的なやり取りだけで物語りは進んでいった。すじ道を立ててストーリーを組み立てることが容易でなかった。そういう力を発揮できなかった。また、何事もあきらめようとする姿勢があった。漫画を書くのはこれだけでやめてしまった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（感情を否定しているわけではない。自分が持っている感情や発想の力のおかげでこの時期を生きていくことができたのだから。それも自分らしさに違いない。）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いつの頃からか『夢』を持たなくなった。そんなもの無駄だと思っていた。人にもそう語っていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;実際、わたしには先の見通しというものがなかった。ただ何となく目の前に『壁のようなもの』を感じておりそれを乗り越えたかった。言うなれば、それがわたしの『夢』だった。そのための向上心はものすごく強かった。そのために色々なアルバイトにも挑戦した。ただ具体的には先のことが見えてこない状態だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;またこの頃からだろうか。いつも何かに怒っていた。家族に対しても怒りをぶつけていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また日常のことができないことがあった。銀行で手続きのため書類を書くことさえ難しいことがあった。書類を書いているだけで汗が出てきた。ビデオ屋でアルバイトをした時、新規でカードを作る説明ができない気がして一週間で辞めてしまった。高校であれほど難しい課題を解いていながら、劣等感の塊のようになっていた。何ごとも人並みにできないという思いがあった。&lt;br /&gt;また今が暑いのか寒いのか、そういった身体感覚が分からないこともよくあった。&lt;br /&gt;また関係があるのかよく分からないが、擦り傷などの傷口がなかなか治らなかった。ストレスで体が弱ってしまったのかと思っていた。&lt;br /&gt;外見を気にして、外出の時はいつも帽子をかぶっていた。人の家に上がった時も被っていたこともあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;親はそんなわたしの様子にあまり関心がないようだった。どうしていいのか分からなかったのかもしれない。わたしに対して屈折した思いがあったのかもしれない。自分も長女として特別に躾けられていた。わたしの容姿が父親に似ていた。原因ははっきりとは分からない。とにかくわたしには触れなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大学生の頃、高校の頃に通っていた皮膚科に再び訪ねていったことがあった。「なぜあんな強い薬を処方したのだ」という怒りの気持ちだった。久しぶりに行くと病院の人たちの態度は変わっていた。以前は声をかけてくれていた看護婦は無視をするような感じだった。すごく冷たい感じがして嫌だった。院長は様子が変だった。独り言みたいに新聞の批判だとか患者が少ないだとか言っていた。数年たってからその医者は癌で死んだと聞いた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このままでは自分は本当にダメになると思った。自分を成長させたいと思った。人と向き合えるようになりたかった。大学に復学もする気持ちもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;翌年の春から小学校の児童クラブでアルバイトを始めた。自分としては人とふれあうこと自体を仕事にするのはすごいチャレンジだった。子どもとふれあうと久しぶりに人と接した気持ちになった。仕事は、調子が良かったり悪かったりして不安定だった。また子どもと接することが器用にできないこともあった。でも子どもは一人ひとり個性があってそれが楽しかった。子どもの遊び相手を自分なりに楽しんでしていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しばらくして外出する時に帽子を取るようなった。久しぶりに帽子を取って外に出かけたら、すごく空がまぶしくて驚いた。もう帽子はかぶらなくなった&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大学に復学して一年下の人たちと同級生になった。しかし人付き合いが上手くできなかった。強い劣等感が消えなかった。相手と自分の間に越えられないような溝があるように感じていたと思う。&lt;br /&gt;常に仲間に入れないことへの怒りと不満の気持ちを抱いていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また何かを説明するにしても論理立てて話すことができなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2回生の時に教育実習に行った。実習担当の教師から『話の内容に繋がりがない。接続語がない』という指導を受けた。しかしそういった素養は自分には無いものであって、育てることができるとは思えなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大学生活を送りながらも、もっと人や社会と交わりたいという気持ちになった。後から考えればそれは欠けたものを埋めたいという気持ちでもあった。&lt;br /&gt;居酒屋でアルバイトをはじめた。依然として劣等感の塊で人と対等に接することができなかった。しかしそこのスタッフの人たちは暖かかった。その場所で初めて集団の中で自分が出せた。人を笑わせたり話を一緒にすることが楽しい自分に気が付いた。ここまで人に優しくしてもらったのも初めてだった。スタッフと将棋をしたり飲みにいったりした。そうしてゆっくりと自分というものが理解されていった。また接客業だと割り切って人と話すこともできた。&lt;br /&gt;アルバイトをはじめて明るくなっていったが、なにかわたしには自信が欠けていた。伝票を書くだけでも難しいと感じていた。卑屈になっているような心が曲がっているような状態だった。それなので本来の自分ではないように感じていた。自分に『欠けているもの』を勢いで補っているような感じだった。そして、自分に『欠けているもの』は簡単には埋めることは出来ないとも感じていた。&lt;br /&gt;「もっと自分はできるのに･･･」しかし、それが出せていないと思った。病気をしたことに原因があるような気がしていた。スタッフの人と遊ぶのだが「あまり話さないですよね」と言われた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;家族のことは、もちろん問題はあるが、それなりに普通の家族だと思っていた。まだ家族のことを信じたい気持ちが強かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;卒業研究に初めは美術理論を専攻していたが、教授に制作のほうが向いているのではないかと言われ、わたしもそう思ったので専攻をデザインに変えることにした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;すじ道を立てて物事を考えることが苦手だと思っていた。作品制作はとりとめもなかった。作品の方向性があっちに行ったりこっちに行ったりしていて、一貫したものがないようだった。また、制作していても、はじめから内容を諦めているところがあった。『もうこれ以上、どうしようもない。これが限界。』卒業制作は出来としては半端な物になってしまった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一部を除き大学の人たちと打ち解けることができなかった。研究室の人に対して対等に接することが難しかった。自分でもなぜそれができないのかが大きな悩みだった。子どもの頃から引っ込み思案でだったり上手く表現できないことはあったが、そういう次元ではなくこの頃には対等に人と接することが自分の一番の課題になっていた。相手と自分の間に溝があるような感じだったと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自分が感じている『壁』を乗り越えたいという抽象的な目標はあった。しかし現実的に卒業後の進路はまったく決めていなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;居酒屋で準社員にならないかと誘われたが断った。そこのスタッフは一年間通して休みはほとんどない。自分の絵の制作ができないとも思った。そして何より、自分に『今は本来の自分じゃない』という思いがあった。自分に対して可能性も感じていたし、何かが欠けているようにも感じていた。&lt;br /&gt;こういった選択をどちらかと言えば感覚的に決めているように思えた。理詰めでものごとを考えることは苦手だと思っていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;翌年の2月に約1か月間、ひとりで欧州へ旅行にいった。旅で自分を変えたかった。旅で孤独を感じたいと思った。しかし、おかしなことに自分の孤独を感じるのが難しかった。実際にひとりになると淋しいような、そういう感覚が麻痺しているような感じだった。それなのでなるべく人と関わらず独りになろうとした。旅行は計画無しで行き当たりばったりだった。ヤケクソな気持ちにもなっていた。&lt;br /&gt;この旅で自分が心に抑えつけているものを、浮かび上がらせたかったのだろうか。しかしそれはまだ叶わない願いだった。その作業は一ヶ月の旅程度では無理だったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;仕事は、教員にならないのなら何をするのか考えて、介護の仕事をしようと思った。そこで老人ホームのデイサービスでボランティアをした。お年寄りと話すのはなかなか難しかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;4月から特別養護老人ホームに就職した。仕事をしていても、自分の調子が安定しなかった。居酒屋でもそうだったが、自分がどういうキャラクターなのか、つかめなくて苦労していた。周囲の人ともなかなか関係を築けなかった。結局、５ヶ月で辞めた。介護職は自分には合わないと思った。スタッフにも仕事が楽しくないのが見て分かると言われた。夏に教員採用試験を受けた。やはり美術の教員になろうと思った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この頃、母親とぶつかることが多かった。母に支配されている気がした。母の存在がけっしてプラスにばかり働いているわけではないと考えていた。25歳の誕生日をむかえる数日前に1人暮らしをはじめた。居酒屋は辞めてからは、1度くらいしか訪れなかった。過去とのつながりを捨てていくような態度だったと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:52:35+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_171c.html">
<title>⑤講師の頃</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_171c.html</link>
<description>2001年から高校で美術の講師を二年間勤めた。教師は子供を相手にしているのでそれ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;2001年から高校で美術の講師を二年間勤めた。教師は子供を相手にしているのでそれなりの振る舞いが求められると思った。大人としての自覚を持って接するように自分に言い聞かせていた。「自分はこれまでの困難を克服してきた」と自分に言い聞かしていた。実際そのようにも思っていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;H高校は地方の小さな学校で、生徒も素朴だった。はじめての学校勤務でかなり戸惑った。初めはどう生徒と接していいか難しかった。&lt;br /&gt;講師だったが授業だけでなく部活と副担任も任されていた。授業にかける熱意は強かった。美術の魅力を伝えたいという強い思いがあった。それで自分なりに教材を工夫して、授業の準備をしていた。&lt;br /&gt;しかし、説明が足りないこともあった。物事を理詰めで話すのが難しかった。それでも、それを踏まえたうえでベストを尽くすしかないと思った。美術科なのでこういうものではないかとも思っていた。自分が高校のときの美術の時間も制作が中心だった。&lt;br /&gt;生徒が作る作品は興味深かった。上手く関係を築けたとは言えないかもしれないが、生徒指導に対して熱意はあった。&lt;br /&gt;自信の無さを勢いで補うような感じだった。何かが欠けていてそれを情熱や努力で必死に補おうとしていた。もっと自分はできるはずなにという思いはあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;能力的なことで同僚に対する劣等感があった。しかし同時にどこか負けてはいないという自負もあった。劣等感や有能感が入り混じっていた。やはり対等な気持ちで接することができなかった。&lt;br /&gt;H高校の教員は、居酒屋のアルバイトの時のような家庭的な雰囲気ではもちろん無いが、暖かい雰囲気だった。しかし教員同士というのはあまりお互いを見ていないとも思った。生徒の方を見ていて教職員同士はあまりお互いを見ていない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;3年生はデザインの選択授業もあったが、自分がまともにデザインの授業を受けたことが無かったので、自分も勉強しながらだった。&lt;br /&gt;美大を受けるという生徒がいた。その生徒の指導に悩んだ。わたしは教育学部の受験経験しかなかったのでそういった経験が不足していた。またその生徒も真面目な性格ではなかった。&lt;br /&gt;部活動は人数が少なく活気が無かったが途中から人数が少し増えて活発になっていった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;遠足、文化祭、いろいろな行事があった。当然のように毎日『先生』と言われた。そのことが快感でなかったわけではなかったが、あまり慣れてしまわないようにとは気をつけていた。しかし仕事は毎日のことなので、結局慣れていったのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;会話が思うようにいかない、それが問題だった。当然、まったく話せないわけではない。美術室の隣の家庭科の教師に「もう少し話せればね…」と言われた。人と話す時も取りとめもなく枠組みのようなものがないようだった。そして最後まで同僚に対する劣等感は消えることは無かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;送別会の時に、副担任をしていたクラスの教員からメモ書きで感謝の言葉をもらった。また、美術部員からプレゼントを貰った。三年の生徒から作品をもらった。しかしわたしは1年を通してあまり生徒と話さない教師だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;3月下旬に教育委員会から常勤講師の声がかかった。この頃には、自分には高校教師は向いていないのではないかと思っていた。同時にそれを否定する気持ちもあった。どうにも自分の力がつかめない感じだった。それもあって、なかなか自分で決められなかった。&lt;br /&gt;そこで大学の教官に相談したら「やるべきだ」と言われた。それは教育学部の教授なのだからその立場で言った意見だったのだろう。&lt;br /&gt;しかし、やはり自分でよく考えて断ることにした。だが県の職員に「断ると採用試験がどうなるか分かりませんよ」と言われた。まだ採用試験を受ける気持ちがあったので、結局は勤務することにした。前の高校での一年間の経験もあるので、やれるのではないかという気持ちもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2年目のM高校は1000人以上生徒がいる大きな学校だった。美術の教員はわたし1人だけだった。美術科の職員室は特別棟に離れたところにあり、その部屋にはわたししかいなかったので、孤独だった。職員はお互い干渉しない人間関係だった。この年度は校舎が改築中だった。新しく教室ができるため、物品を購入して設備を整えることも仕事だった。予算だけが決まっていてその内容がほとんど手付かずで、全部わたしが決めなくてはならなかった。予算が数百万はあった。講師に任せる仕事だろうか?…と思った。事務の人と何度も相談して決めていった。1学年の会計もしていた。学生寮の宿直もあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1年生は初めのうちは元気だった。しかし進学校のため勉強が厳しかった。朝は0限から授業があった。疲れている生徒も多かった。その影響も少なからずあって授業中に雰囲気が悪くなることもあった。また生徒数が多くてひとりひとりを把握しきれていなかった。&lt;br /&gt;2年生は短期間の集中授業があった。3年生は選択の授業だけだった。美大・芸大を目指している生徒が十数名もいて、選択の時間はそのデッサンの練習だった。　　　&lt;br /&gt;自分の力不足と、他の仕事の多さから、なかなか受験指導が上手くいかなかった。自分しか美術教師がいないので誰かに頼ることはできなかった。市内にあるデッサン教室に通っている生徒も多かった。美大・芸大を受験する場合、それは特に珍しくはないことではあるが、自分が役不足であることは明らかだった。自分の受験に対する知識があまりにも無いと感じた。自分が高校の頃は大学を受けるだけで精一杯だった。美術の教師もあまり指導に熱心ではなかった。&lt;br /&gt;生徒の将来に関係しているのだから当然だが受験指導の責任を重く感じた。小論を頼まれた時、自信がなくて断った。途中で講師の話を受けたことは間違っていたのではないかと思った。悩んだが、途中で投げ出すのが嫌で、最後までやろうと決めた。&lt;br /&gt;3年生は受験対策で県外の夏期講習に出かけた。男子で立体の上手な生徒がいた。この子は受験には失敗して予備校に入った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;部活動は部員が30名近くいた。部員が多くてH高校の時とは勝手が違っていた。生徒と上手く接することができるかどうかで、常に気負っていた。1年生の新入部員は10名近くいた。よく職員室に紅茶を飲みに来ていた。個性的な子が多かった。2年生は自主的に動く子達だった。3年生は秋の高校美術展までは部活動に参加した。それから後は受験に専念していた。部活動で青年の家などに何度か引率で出かけた。副顧問の先生についてきてもらった時は助けられた。高校美術展に出品した時に気付いたが、M高校の作品は他校の作品と比べて色彩が暗かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;他の高校の美術教師との集まりが苦手だった。態度の大きい人ばかりだった。しかし飲み会には毎回出席していた。大きな学校だから責任を感じていた。&lt;br /&gt;教員同士での飲み会はまったく面白くなかった。みんな仮面をつけて演じているようだった。&lt;br /&gt;普段からも他の教師とは職員室も離れておりほとんど話さなかった。昼食は食堂か弁当だった。一人で食べることも多かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;疲れてもう限界という時も、無理やり力を出して、それを繰り返すような感じだった。しかし無理をした次の日は調子がでなかった。調子が安定していなかった。途中、ストレスから物貰いができたり、胃が痛くなって検査を受けた。&lt;br /&gt;相変わらず自分がつかめないような感じがしていた。それが仕事をする上で足枷になっていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自信の無さを振り切るように勢いだけで仕事をしていた。しかしどうしても埋められない穴があった。自分の矛盾を指摘するもう一人の自分の理性。そんな内面の声が聞こえたこともあっただろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自分なりに生徒に向き合ってはいた。教師としての自覚だけは持とうとしていた。でもそれにはかなり無理があった。自分も意識できていない傷を抱えていた。当時の自分以上のものを自分に求めていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、そういった無いものねだりをしないではいられない心情でもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;講師をしながら来年からの進路を考えてT県にあるN大学の大学院を受験した。『何かは分からないが自分には何か欠けている！』時間をかけてその問題をクリアにしようと思った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;送別会で事務の人から「迷惑をかけてすいませんでした」と言われた。自分は経験の無さからかこれくらいのことは当たり前と思っていたのだが…。周囲の人に対して理想的な面しか見られなかった。&lt;br /&gt;生徒からできないことはできないといったほうがいいですよと言われた。&lt;br /&gt;一年間の勤務が終了してみると不完全燃焼の感じだった。前年より生徒と接するのに慣れていたのは確かだが。生徒に悪いことをしたと感じた。もうこの町にいられないような気持ちになった。&lt;br /&gt;　&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:53:44+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/n_acce.html">
<title>⑥N大学の頃</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/n_acce.html</link>
<description>2003年4月にT県にあるN大学大学院へ入学した。親元から遠く離れるのは初めての...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;2003年4月にT県にあるN大学大学院へ入学した。親元から遠く離れるのは初めてのことだった。忙しい講師勤務から自由な身の学生へと生活が変わった。N県N市も地元のM市とは雰囲気が違っていると感じた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;N大学大学院には当前だが年下の人間が多かった。しかし教員を休職して来ている年配の方もいた。美術研究室の入学生は12名だった。わたしが専攻していた研究室は、学生がわたし一人だけだった。研究室の場所も他の研究室とは別の階にあって遠く離れていた。一方、絵画の研究室は20人を超えていた。学生たちは研究室ごとに居場所をはっきりと別けていた。お互いの研究室が干渉するのを避けていた。自分の制作できていれば良いという雰囲気だった。そういう雰囲気が学生と教官に浸透していた。担当教官は孤独を好む傾向があった。他の研究室はにぎやかなのに、自分だけ教室で独り制作していた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;寂しいので絵画研究室に自分の制作場所を作ってもらおうとしたが反対する学生がいて上手くいかなかった。こちらから訪ねていくことはあっても向こうからこちらの来る人は少なかった。制作中に訪ねていくのも気が引けた。人数の偏りが力関係の偏りになっていた。&lt;br /&gt;しかし自分が積極的に接していけば人間関係も良くなっていくのではないかと思っていた。自分の専攻を途中で変えるのも嫌だった。しかし自分なりに努力はしたが状況は変わらなかった。&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=349,height=334,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/w.jpg&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;どう考えても公平な関係ではなかった。でも、そういった立場の人間が私ひとりだけだった。院会の集まりで、そのことを話題にしようとしたがためらわれた。向こうは大人数だし、上手く言葉に出せるだろうかという不安もあった。常に大学関係者に対する怒りや不満の気持ちが強かった。&lt;br /&gt;この時期に人間関係や集団心理の怖さについて思い知った。また、自分が一番嫌いなのは、こういう冷たい人間関係なのだと、再び確認した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;講義の課題で文章を書くと言葉の使い方にはそれなりの良さがあることには気付いた。だが、それを組み立てることはまだ分からなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;T県に来てから講師の頃を思い出して悔やむことが多かった。思い出すと苦しくなることがあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;T県に来てからは時間もあったので自分自身について考えることもできた。&lt;br /&gt;『いったい、自分の他者との対等感の無さはなんだろう？』徐々にこのような自分への問いが生まれてきた。誰かと比べて能力的に劣っていたとしても、それと大きく自信を無くすことは別の問題だ。この引け目は何だろう？また父親は頭のいい人だったと聞く。自分もそれなりではないのか？自分はできるはず…。』&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大学院1年時の日記に次のように書いた。&lt;br /&gt;『自分はこれまでしっかりと成しえたものがない。何をしていても中途半端な諦める感じがあった。でもこの院で制作だけでもしっかりやり遂げれば、これまでとは違う毎日が見えてくるかもしれない。』&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そんな孤独な環境の中でもいくつかの出会いがあった。その中でも、Ｄさんとの出会いが強烈であった。Ｄさんは同じ研究室のＯＢで幼稚園の教員をしていた人だった。偶然にも同い歳だった。Ｄさんは頭の回転も速く自分を前面に出してくる感じだった。知的だが気取らない人柄だった。わたしが講師時代に同僚の教員に感じていた気取った仮面を被っているような感じがなかった。それまでの職場で、自分と同年代や同い年だが、正規で働いている人に会ったことは何度もあった。でも自分と比較することはあまりなかった。しかしDさんのことは本気で自分と比較した。Dさんの対等な接し方のせいもあったし、自分に向き合えた時期に出会ったからだろう。Dさん自体に惹かれていることが大きかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Dさんは社会人ということもあり話にも共感しやすかった。学生とは通じないことも通じるようだった。数回しか会ってないにもかかわらず孤独な学生生活の中で精神的な支えになっていた。またDさんに会って自分の世界が広がったようにも感じた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;わたしはこれまで自分に欠けているものをDさんの中に見つけたのだろう。&lt;br /&gt;Ｄさんは論理的で、話が理路整然としていた。またDさんは私とは違う形で家族について問題を抱えていたようだった。わたしとは逆で、きまりが厳しい家庭のようでその不自由さに苦しんでいるようだった。また仕事の話も忙しく働いている様子が伝わってきた。しっかり地に足が着いていた。作品制作についても制作そのものよりは人とのつながりを重視しているように見えた。かなりユニークな性格だが自分に対して肯定的だった。&lt;br /&gt;Dさんの中に見つけたものでいちばん大きなもの…それは尊厳…自分自身に対する祝福のようなものだと思う。&lt;br /&gt;Dさんに会ったことで、ずっと奥にしまわれていたわたしの一部が意識されはじめたのだと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;夏季休業中に『灯台』（作品①）という作品を作った。何か自分の心の傷を暗示するような作品だと制作後に思った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;秋にグループ展がおこなわれた。わたしは家族をテーマにした『ＢＯＳＨＩ』（作品②）という作品を出した。このタイトルはそのまま『母子』のことだった。&lt;br /&gt;少しずつ自分の問題に向き合いはじめていたのだろう。そもそも、ずっと以前から家族のことを問題には感じていた。その意識がＮ県に来てからより強まったのだろう。学生生活が孤独なことや将来に対する気持ちが定まらないことで、精神的に苦しい中でできた作品だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;作品を通して自分のことが分かってもらいたいという心境もあったろうし、自分の内面を率直に反映した作品でもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;グループ展で色んな人や作品にふれて刺激を受けた。Ｄさんにも再会した。Ｄさんは日常に不平不満を持っていた。それなのでわたしは彼女に日常にある価値について気付いてほしいという気持ちだったと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;冬に版画研究室の飲み会があった。Dさんも来ることになっていた。この日は朝からプレッシャーだった。Ｄさんは働いているのに、わたしは男性にもかかわらず未だ学生だった。今更のことだったがそういうことを考えていた。飲み会では、わたしは調子が出せず、思ったように話せなかった。自分が表現できなかった。不完全燃焼で後味の悪いものになってしまった。Ｄさんも？な様子だった。悔しかった。『この不甲斐なさはなんだろう？』『自分の他者への対等感の無さはなんだろう？』『私は自分を肯定できているのか？』強くそう思った。結局、この飲み会がＤさんとの最後の別れになった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;後から思えば、Dさんに対して、わたしは、自分の母親の理想を投影していたと思う。そしてその理想から生まれたもうひとりの自分に出会ったようだった。実際この後、自分の内面でもうひとりの自分に出会うことになる。あまり話してもないのにもかかわらず、想像のDさん像を作っていた部分もあったと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;数日間だが地元に帰省した。母と二人で年を越した。側から見れば親孝行だが母に対する違和感があった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;年末に、はじめて心療内科を訪ねた。きっかけは些細なことだった。大学院の研究生の女性が男性と街中をいるのを目撃しただけだった。それなのに妙にショックを受けてしまった。特別にその女性に強い思い入れは無かった。しかし、その頃は孤独感から精神的に追い込まれていた。それで少しのことでもショックを受けてしまったのだろう。それを目撃してから意識がぼんやりとしており頭の中に霧があるような状態だった。それまで味わったことがない感覚だった。しかし３日間くらいで治った。念のために診療を受けたが、何でもないと言われた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;年は明けて2005年1月に学内で作品展をした。Ｄさんが見に来てくれるかもと淡い期待をしていた。何か伝わるかも、変わるかもと。結局は来なかったようだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;〈思考の広がり〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その日は何度目かの就職ガイダンスだった。講師の女性は理路整然としていた。講義は精神論だけではなく論理性の大切さを指摘していた。面接での自己アピールを、論理的に組み立てて効果的に行うことを教えていた。講師から私に対して『誠実そうではある』というようなことを言われた。&lt;br /&gt;またある日の就職ガイダンスはグループディスカッションが行われた。この日は特に論理的思考の大切さが言われた。講師からはっきりと話す内容に論理性がないと指摘を受けた。他の授業のときも、周りの人と比べてその様な感じがしていた。&lt;br /&gt;論理的とはどういうことだろうか。以前から気にはなっていたが特に勉強したことはなかった。家族や親戚にも理路整然としたタイプの人はいなかった。あまりそういうのが好きでもなかった。言葉や理屈に偏った表現というのが嘘くさく感じていた。『論文の書き方』（澤田照夫）を読みはじめた。この種の本を読むのもはじめてだったかもしれない。最初のほうを読んだだけで驚きがあった。文章のひとつひとつが発見につながっているようだった。論理性を学ぶことが現実に向き合うことのように感じていた。&lt;br /&gt;それまでは、無意識に避けていたのだろうか。論理性も『気づき』に至ることのひとつの要因だったと思う。また自分の問題に気づき始めていたのでそういったことに興味を持ち始めたのかもしれない。それまでは自分の人生の秘密に辿り着くのを知らないうちに避けていたのだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2月の版画ゼミの時に突然、担当教官からＤさんが婚約したと聞かされた。すごいショックだった。根拠のない甘い期待は崩れさった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;修了展の話し合いがあった。20人近い院生が集まり話し合った。話の要点を意識すればスラスラと話の道筋が見えてきた．話の道筋が分かっているので、わりと的確に意見も言えた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この頃から自分に今まであまり意識してこなかった思考力があることを気付き始めていた。他の人の話を聞いたり意見を述べたりしてそのことを確認していた。論理性だけでなく、記憶力も増しているようだった。ものごとの繋がりを辿っていくとそれまでよりも、前のことまで思い出せた。本を読む際も、文章が早く読め、内容を整理してつかめるようだった。神経が過剰に働きすぎているようにも思った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それまでも論理性がなかったわけではない。それぞれの場面でその時の自分なりに悩み考えて答えを出していた。しかしどうしても越えられない壁のようなものがあり、それが思考の広がりを妨げていたのだと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;論理性のことだけではなく様々なものが気付きへの扉となった。講師などの仕事、他県での生活、大学院の環境、Dさんのこと、親子関係の変化･･･ETCが自分の奥底に抑え込んだものを『現実』に向き合わせたのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;10年間、ずっとその扉をノックしていたのだろう。その最後の鍵がDさんに対する思いや論理性だったのかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;〈気づき〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;3月に地元に少しの間、帰省することにした。帰り道の車中でＤさんのことばかり考えていた。精神的に落ち込んでいた。『もう１度はない』と心の中でくりかえした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;地元のＭ市に近づいた頃、車中から真っ赤な夕焼けが見えた。あまり見たことがないようなすごく真っ赤な夕日。実際はいつも見ている夕日とそう変わらないのかもしれなかった。しかしその光景は夕暮れのような夜明けのような不思議なものに感じられた。心にグーッと押し寄せるような、しみ込んでくるようなものがあった。悲しみ？後悔？見ていてつらかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;実家に戻り自分の部屋に入った。それまで特に気にも留めたかったいつもの自分の部屋なのだが、見ていてつらい。この部屋の中で１人よく悩んでいた。過去の悲しみが宿っているようだった。窓から見える世界も孤独でつらい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ベッドに座っていた。昔のことを考えていたのだと思う。&lt;br /&gt;そして脳裏に浮かんだ。過去の出来事。中学校、高校、大学の時期。病気のこと、家族のことが次々に浮かんだ。&lt;br /&gt;それまではそれが1つ1つが断片的で繋がりが無いようだった。またその1つ1つの記憶もあいまいでぼやけていたと思う。しかしその日、わたしの頭の中で過去の出来事が繋がりあった。はっきりとそれらの事を思い出した。&lt;br /&gt;それらが思い出されてきて停まらなかった。まるでダムが決壊し水があふれ出るような感じだった。&lt;br /&gt;そして、すべてが繋がり新しい意味を見せた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;過去のつらさや後悔、孤独が、ど――と押し寄せてきた。それはまるで世界が裂けていくようだった。ちょうど帰り道に見た、真っ赤な夕日のような景色が現れた気がした。それが裂けていくようだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;初めは主に中学校、高校の頃が思い出していたと思う。なぜ自分があんな目に会わなくてはならなかったのか！なぜあんなことが起きたのか！このとき初めて自分が十代の子供には耐えられないような傷を負っていたことが理解できた。&lt;br /&gt;そして自分が一方的に悪くないと分かったときに、世の中や自分のことが自分にとって本来の姿で見えてきた。&lt;br /&gt;病気をしたことだけでなく、それまで自分が家族の中に居場所が無かったということがとても悲しく思えた。もっと昔の頃の記憶…幼稚園の記憶、小学校2年生の頃からの家庭の状況も思い出していた。わたしは常に居場所のようなものがなかったのではないか。そのことが中学校・高校の出来事に繋がっていたのだ。&lt;br /&gt;そして現在の自分のことに繋がった。自分が思っていたより現実というものの低さを知った。すごく孤独だった。すごく淋しかった。&lt;br /&gt;それはそれまでの人生観をひっくり返すような衝撃だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;涙が次から次へとこぼれて、長袖を着ていたが、両腕の布地がぐっしょり濡れた。こんなに涙を流したことは小学校のとき以来だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ずっと正体がつかめなかった『欠けたもの』に気付いた時だった。それまで意識から遠ざけていた過去の痛みを思い出した時だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『自分が子ども時代に傷を負ってそれに10年間支配されていた…』自分なりに頑張ってきたはずなのに、こんなに大きなことに気付けなかったなんて…。気持ちが後悔に向かった。悔しかった。&lt;br /&gt;それはまったく予想していない答えだった。味わったことがない感覚だった。自分がどうなってしまうのか怖かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『これは現実か？信じられない…今になって思い出すなんて。こんなことありうることなのか？･･記憶喪失の一種とか？』&lt;br /&gt;『記憶が順序だって繋がりを持って現れてくる。これまでは、できなかったのに…。これからどうなるんだ？どう情報を処理すれば。大丈夫か？私の頭は？』&lt;br /&gt;頭がおかしくなるんじゃないかと思った。後頭部が詰まるような感じがした。&lt;br /&gt;翌日、友人に会ったときは消耗しきっていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大学院に入学した頃、日記に書いていたように、わたしはそれまでとは違う毎日を見つけたかった。この経験はわたしが人生を歩むために必要な、いつかは通らねばならない関門だった。わたしの『夢』が叶えられたとも言える。かつて隔てられてしまったわたしの大切な一面に出会えたのだから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（それは『10年間』抱き続けていた思いでもあり、中高のときに求めていた表現することや精神的な強さでもあったと思う）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:56:59+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_06e8.html">
<title>⑦発症してからの頃〈回復期〉</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_06e8.html</link>
<description>〈喪失感、無力感〉 抑うつ状態だったが、大学院は続けるつもりだったのでＴ県に戻っ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈喪失感、無力感〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;抑うつ状態だったが、大学院は続けるつもりだったのでＴ県に戻った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;少し前から特別支援教育を勉強しようと考えていた。『気づき』があってから、自分自身に色々な変化がおきたようだった。以前より記憶する力が増しているようだった。記憶を辿っていくと以前より古い事まで思い出せた。また読解力も上がっているようだった。車の運転が以前のようなぎこちなさがなく正確にできるようだった。道にもあまり迷わなくなった。それから物がやけに奥行きがあり立体的に見えた。考え方だけじゃなくそういった他の感覚も変化しているようだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ある日、寮から車で数十分のところにある川辺を一人で歩いていた。歩きながら自分がすごく無価値だという思いにとらわれた。それまでの自分の人生に価値が感じられなかった。自分が歩んできた人生、仕事等・・・。自分に対してふがいなさ気持ちだった。失恋に対しても『自分の問題に気づいた後にＤさんと出会えていたなら』と考えて後悔していた。『気づき』で大切なものを得たはずなのに、同時に多くのものを失ったような感覚だった。 (それまでの自分の考え方や世界観を否定するネガティブな信念に変わってしまっていたのか) 大学院の孤独な生活の中で過去の傷や現実に向き合わなくてはならなかった。自分がおかれている現実に対して自分はあまりにも無力に感じた。自分の中の理想と現実は大きく離れていた。寮で、鏡に映った自分の姿をみて無力な気持ちになった。問題に気付いて、しかしまた自分の無力さと向き合わなくてはならなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;〈感覚鈍麻と抑うつ〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; 5月に家族で作品展をすることになっていたので制作をしていた。体力や気力はあまりなかった。しかし、計画立てて制作に取り組むことで、これまでよりも思ったように作業が進んだ。はじめにイメージしたものに近い作品ができた。S大学時代のいきあたりばったりの作品制作とは違っていた。しかし心身ともに相当に無理をした。精神的な落ち込みが普通ではない感じだった。なぜ家族のために作品を準備しているのか疑問に思うことがあった。家族展で久しぶりに家族がそろった。しかし家族に対する親しみが持てなくなってきていた。展示中いっしょにいる時はそれほど感じなかった。Ｄさんに手紙を書いた。どうしても自分の気持ちを知ってもらいたかった。書き終わったが、『もう遅いよな』という気持ちもした。返事が来たのは１ヶ月後のことだった。未だＤさんを求めていた。Ｄさんならわたしの問題を分かってくれるはずではと。しかし現実にはＤさんとはもう会えない。（Dさんなら分かってくれるという後向きな考え方だと思うが）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;６月に特別支援教育の教育実地があった。この頃には、大学院にいる意味が分からなくなっていた。居ること自体に違和感があった。寮の部屋に一人で居て『なぜここにいるのか』という気持ちになった。元から大学での人間関係が上手くいかないことや孤独な環境があったが、そういうことよりも、まるで世界全体が肌に合わないような感じだった。世界から切り離されたような感だった。自分が以前とはものごとに対する感じ方がまるで違っていた。本を読んでいても人と話していても以前とは感じ方が違っていた。過去の傷に気づくまでの『10年間の自分』と気づいてからの『新しい自分』が一致しないような感覚だった。世界に対しても自分に対しても強い違和感があった。（『気づき』があって、もう1人の自分との間に隔てる壁はなくなり出会えたのに、そこが裂けてしまっていて繋がらないような感覚ではないだろうか。）日増しに孤独や不安が強くなっていった。この場所に居られない気持ちだった。ストレスから自分の部屋でひどい腹痛になった。教育実地の話し合いの場に行くと、ここから早く出たい気持ちでいっぱいだった。気力を消耗していた。妙に疲れやすくなっていた。養護学校への実習までいったがリタイアした。辞めるかどうかはかなり悩んだ。それから休養するために実家に戻った。教育実地を途中で辞めたことを後悔する気持ちが出ていた。 7月は地元に帰って過ごした。気持ちの落ち込みがひどかった。 Dさんへの思いを引きずっていた。他の男に取られてしまったと落ち込んでいた。悔しい思いでいっぱいだった。失恋したことと、『１０年間の自分』に対する違和感が入り混じっていて、混乱していた。「あれは自分じゃない」と過去の自分を否定したい気持ちだった。自宅のマンションから飛び降りてもいいかな、と思った。そういう意思があったというよりは、本能が弱っているみたいに死に対する怖さを感じないようだった。体調が良くないにもかかわらず、教員採用試験の勉強をしていた。本を読むと文字がいっぺんに入ってくる感じだった。自分がコントロールできていない感じだった。そんな日々を続けるうちに、めまいを起こした。目が回り、物がだぶって見えるようになった。自分というもののイメージが分からない感じだった。自分というものがつかめなかった。自分も回りの世界も砕け散っているようだった。採用試験を受けたが体調がおかしくそれどころではなかった。試験官になにを聞かれているか分からないこともあった。地元の心療内科に行った。軽度のウツではないかと言われた。それ以上のことは言われなかった。坑ウツ薬（ルボックス）を処方してもらった。大学を辞めるかどうか悩んだが、『ウツの時は大きな判断を先送りにしたほうがいい』と本で読んだ。まだ教育実地を辞めたときみたいな後悔をしたくなかったので続けることにした。（この判断は間違っていたと思う。PTSDでは自分で主体性をもって決めていくことが大切らしいので・・・。よくは分からないが。）家族に状態を話してもやはり理解を得ることはできなかった。伝わらず共感を得ることが出来なかった。過去のことで母を責める事もあった。母との関係も悪くなって実家に居づらくなった。実家にいられないので祖母の家に住んだが、祖母にも疎まれた。祖母は昔から人間嫌いなところはあったが、この頃には、そういう面が昔より表に出ている感じだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この世に自分の話を理解してくれる人がいなかった。医者も「気の持ちよう」と言うばかりだった。同級生も電話でなら多少は話を聴いてくれる人もいた。しかし体調を崩していてすぐ疲れた。自分の状態を俯瞰してみることが難しかった。それらのことが事情を伝わりづらくしていた。以前のように、人に親しみを感じることができなかった。しかし一方では人との接点に飢えていた。孤独だった。もっと休みたかったが、地元にはもう居られなかった。 8・9月はT県の旅館でアルバイトをした。めまいもしていたので大変だった。同じ飲食業だったが以前の居酒屋のようにはできなかった。何もかも以前と違っていた。世界が変わってしまったようだった。教師としてなりきっていたので、再び飲食業をするのに抵抗があったからかもしれない。思うように体が動かなかった。地元にもＴ県にも居場所がなく、両県を車で行き来していた。300キロ以上あり片道8時間はかかった。高速道路などを利用して頻繁に行き来していた。当時は運転だけは大丈夫なように感じていた。しかし数年たってからそれらの日々を思い出してつらい気持ちになることがあった。体調が危ない時もあった。実家で休みたかったがそれができる状態ではなかった。運転が危ない時もあった。休みながら走っていた。運転してる間だけは気がまぎれるのか孤独感が和らぐように感じていた。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=300,height=407,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/03/30/1.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;1&quot; height=&quot;515&quot; alt=&quot;1&quot; src=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/03/30/1.jpg&quot; width=&quot;380&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: left; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 『いつもと同じ光景、同じ世界のはずなのに。自分が世界から切り離されてしまったような感じがする。自分がこの世界の難民になってしまったように思える。世界も自分もイメージがつかめない。自分とってそこは新しい世界のような気もする。その混乱と怖さがあった。』&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかしＴ県に近づくとつらい気持ちがよみがえってきた。風景を見るだけでつらかった。抑うつ状態がひどかった。後期の授業が始まった。大学にいること自体にかなりの違和感があった。元から人間関係が悪かったし体調を崩しているのでそのせいかなと思った。なかば意地になっていたので続けて学校にいった。薬のおかげで夏の頃よりは楽になっているようだった。薬で感情が鈍くなっているようだった。以前と違って、院会で自分の立場をはっきり言うようになった。同じ立場の人間が他にいなくても発言した。そのことで関係が悪くなった人もいた。以前よりは風通しが良くなったが、人間関係が悪いことには変わらなかった。多勢に無勢であった。しかし、はっきり自分の意見をいえるようになったことは良かった。この時、自分を責めている限り自分にどんどん悪いしわ寄せが来る。自分を責めている限り対等に世の中が見えないと思った。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;12月に作品『夜明け』が10日間くらいで制作した。これの出来が良かったのでやはり修了しようと決意した。Ｔ県の病院でも軽度のウツという扱いだった。（作品内容も以前の作品より画面に奥行きが出るようになった。自分が見ている風景が少し変わったように作品の中も少し変化していた。それは自分にとって願った変化、嬉しい変化だった。しかしそれと同時にこれまでの『10年間』の世界観について、人生について、否定したい気持ちが起きるのだ。2つの考え方がぶつかっているような感じなのだろうか）制作論文を書いて口頭試問を受けた。大学関係者に怒りの感情があった。それなので修了できると分かった時、何かしてやったという気持ちになった。学生や学校関係者に会うと以前のような親しみがまったく持てなかった。なぜ以前と違うように感じるのだろう？なぜ親しみが持てなくなってしまったのか？原因が分からなかった。やはり以前と自分が一致しないようだった。なぜ自分が入学してきたのだろうかとまで考えた。体調不良のことは、学校関係者には担当教官と年上の研究生には話した。しかしこの違和感を言葉にすることは未だできなかった。軽ウツのせいだろうか？論理性を身につけたためだろうか？大学院の人間関係のせいだろうか？と考えていた。あらゆる人と切り離されてしまった感があり、その混乱の中で大学院生活を送らねばならなかった。この苦悩に対して誰の共感も得ることが出来なかった。最終的に院2年生は20人いたがそのうちのほとんどを敵に回すような形になった。ひとりひとり会う分には問題はないが、集団になるとひとつの敵対的な冷たい意思を持っていた。そんな中で修了展の展示作業などを共同ですることは辛かった。無理をして修了までこぎつけた。地元に帰省する前日に気が緩んだのか何度も嘔吐した。 N大学はちょうど転換期の境目だった。それがあそこまで人間関係が難しくなり生活環境が厳しくなった。高校３年のことに感じた救いのなさ。周囲の人も家族も理解してくれないということ。その状況も再現されてしまった。しかし今度はなるべく話す努力はした。それでも分かってもらうのは難しかったのだが。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:58:29+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/m_db10.html">
<title>⑧M市に戻ってから</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/m_db10.html</link>
<description>M市に戻ってから それまでの人生は寂しさを感じることができず無意識へその痛みを溜...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;M市に戻ってから&lt;br /&gt;それまでの人生は寂しさを感じることができず無意識へその痛みを溜め込んでいた。そして転機の『気づき』が訪れて、それまで気づかなかった、自分の寂しさと向き合うことになった。それが実際に孤独な環境の中での作業だった。&lt;br /&gt;わたしは人や社会との接点を探し求めた。自分の居場所を探し求めた。&lt;br /&gt;体調を崩しながらだったので半端な作業ではなかった。それが可能になったのは色々な人たちのおかげだった。電話で話を聴いてくれた同級生。以前と変わらすに接してくれた人たちや新しく出会った人たち。&lt;br /&gt;（出会った人たちと対等に接することができた。それは自分自身が変化したことが大きかったと思う。もう1人の自分で会うことができたから。しかし壁が取りさられた代わりに、そこのところが裂けてしまって繋がらない。それが不具合として症状に出ていたのではないだろうか。もがきながらもどこかで冷静に把握しようとしている自分もいるのだが。)&lt;br /&gt;〈Ｋ中学校〉&lt;br /&gt;2月に実家にもどった。過去のことで母と妹とは衝突はした。2人は病気のことを話したが分かろうともしなかった。2人は向き合うことができないようだった。家には眠る所がかろうじてあるだけだった。自分の体調を確認するほどの余裕はなかった。心の中は孤独と不安だけだった。&lt;br /&gt;実家にいることには期限がついていた。もう少し休みたいとお願いしたが母は拒否した。&lt;br /&gt;教員採用試験を受けたとき講師届けを出していたので県から声がかかった。4月から市内のＫ中学校でクラスサポートの仕事をすることになった。一人暮らしをするので仕事が必要だった。経済的なこともあるが社会との接点を求めていた。1日5時間の勤務なのでやれるだろうと思った。アパートを借りて引っ越した。&lt;br /&gt;症状からくる不安感があった。当時は、どこまでが症状で、どこまでが気の持ちようなのかがよく分からなかった。&lt;br /&gt;医者に、事情を詳しく話したが「それは気の持ちようだ。」と言われた。診断もはっきりとはしなかった。&lt;br /&gt;依然として自分や世界がつかめないような感じはした。部屋を明るくしてテレビをつけていないと眠れなかった。&lt;br /&gt;クラスサポートの仕事内容は、休憩時間に子どもの相手をすることだったり授業中にさわいでいる子を注意したりするものだった。責任も少なかった。それさえも体調が安定しなかったので難しかった。特にはじめのころはその場にいるだけで精一杯だった。&lt;br /&gt;医者にそのことを話しても『まだ、慣れていないから。気の持ちようだよ』と言われた。またウツではないと言われた。仕事は何とかがんばって続けようと思った。そのうち良くなるかもしれないと思った。&lt;br /&gt;わたしは友人も少なく、またみんな働いていて自分のことに忙しいようだった。会っても、なかなか症状のことが伝わらなかった。話しているだけですぐ疲れてきて気力がなくなった。頭の巡りが悪く話すのがしんどかった。&lt;br /&gt;また、友人に以前のような親しみを感じることが難しかった。その時はなぜだか分からなかった。論理性を身につけたから？ウツ状態だから？それらのことが原因ではないかと思われた。&lt;br /&gt;なぜこうも感情が冷たいのか。友人を見下してしまっているのではないか？そういったことで悩んだ。&lt;br /&gt;視野が狭まっていて考えを広げていくことが難しかった。&lt;br /&gt;これは自分自身が変化したこともあるが、友人らもそれぞれの生活に合わせて変化していったこともあるのだろうと思った。&lt;br /&gt;以前の自分がどのような状態で過ごしていたのかもよく分からなかったし、また以前のように戻れるようにも思わなかった。この頃、PTSDのことは知らなかったが、新しく自分を創っていかなくてはならないとは考えていた。しかし心理学の知識などはほとんど無かった。&lt;br /&gt;一人で暮らし始めてからも、家族は支援をしてくれなかった。地元に帰ってくれば状況は好転するかと思っていたが、実際はそうではなかった。日常を送りながらも家族に対する怒りや不満が爆発しそうだった。&lt;br /&gt;クラスサポートのほかにもアルバイトをした。体調は思わしくなかった。何よりも怒りが胸の中で渦巻いていた。&lt;br /&gt;習い事に陶芸や書道をはじめた。しかしどうしてもなじめなかった。世界から切り離された感じだった。&lt;br /&gt;わたしの中では『10年間の自分』を否定し、『気付いてからの自分』だけを受け入れたい気持ちがあった。『10年間の自分』はただ惨めなだけに思えた。ボロボロに傷ついているように思えた。&lt;br /&gt;唯一、中学校の勤務中はそういった思いを感じないですんだ。子供と接している時だけそれら感情を少し忘れることができた。&lt;br /&gt;子どもには前より好かれるようになったと思った。人と接する時に以前のような劣等感が無かった。混乱はしていたが、以前のような自分に欠けているような感じがなくなっていた。&lt;br /&gt;感覚的なことだが、たまに『10年間の自分』を受け入れることができたような感じになることがあった。しかしすぐつらい気持ちになり、風邪を引いたように熱が出ることがあった。&lt;br /&gt;上司から勤務態度を注意されることも多かった。事情をはなそうかと何度も思ったが当時はためらわれた。自宅に帰り1人部屋の中でどうしようもない気持ちになった。&lt;br /&gt;１人で家にいるとたまらなく不安になった。外に出て人に会うことで自分というものを確認していた。親戚の家にいった。子どもの頃はそこまで親しくしていなかった人とも話した。自分の居場所、（一時でもいい）を作るのに懸命になった。しかし、その場にいることで精一杯だった。人と会うからには、話したり遊んだりしなくてはならなかった。家族でもない人とゆっくりするということは難しかった。&lt;br /&gt;これらの行動は、つよい孤独感からだと思う。それまで溜め込んできた孤独があふれてきたのだろうか。&lt;br /&gt;Ｋホスピタルの医者に何度も説明したし、自分のこれまでの経緯を文章に書いて渡したが、特に反応はなかった。&lt;br /&gt;ひとりでは、自分が今どんな状況に置かれているか、どのような症状なのか、客観的につかむのが容易でなかった。&lt;br /&gt;母に怒りをぶつけると母はそのことを妹に相談した。それで妹とも電話で言い争った。家族との関係は悪くなっていく一方だった。&lt;br /&gt;この頃から、自分の家系を調べだした。それで母や父がどういう環境で育っていったかも分かってきた。親戚に話を聴いていくと母方の家族も機能不全であることが分かっていった。&lt;br /&gt;医者に薦められ、本を読んで『認知療法』を試した。過去にさかのぼって自分の考えに歪みがないか検証していたった。文章を書くのに2・3ヶ月かかった。そして体調を崩した核心の部分も書こうとした。早く直りたい一心で作業したが、1人でこの作業をするのは厳しかった。かなり無理があったと思う。本当に心から見えない血が吹き出ているようだった。しかし文章を書いたことで完全ではなかったが、自分の起きたことの少し整理がついた。（言葉だけで、論理だけで割り切って文章を書くのは危ないと思う。それはますます裂けた溝を大きくするだけではないだろうか??感情がともなわないと意味がないと思う。）&lt;br /&gt;毎日の生活を送るうちに、少しずつ集中力が続くようになってきた。しかし緊張型頭痛なのか何なのかはっきりしないが、頭が締め付けられるような症状が、秋ごろから現れた。頭の一部分（左側？）が固まっていて上手く頭が巡らない感じだった。力を入れると音がした（耳鳴り？）。入れなくても音がするときがある。左耳で鳴ることが多かった。頭の中心でなることもあった。左耳が塞がったような感覚もあった。頭の中の、その固まりのような、滞った感じが、他の部位に喉だとか後頭部だとかに移ることもあった。心の問題をときほぐすことで、症状がやわらいでいるように感じることもあった。&lt;br /&gt;年末に、父方の祖母のことを調べていて、それがきっかけで25年ぶりくらいに父親と電話で話した。また、あまりに熱心にわたしがそのような行動を取ることもあって、ようやく家族がわたしの症状のことを信じ始めてきた。&lt;br /&gt;祖母はわたしには冷たかった。祖母のわたしに対する態度は子どもの頃の優しさとは180度違っていた。ちょうど『気づき』のころからそういった態度になった。&lt;br /&gt;家族との関係を築きなおすことが自分の生活の『安全』を築くことだった。&lt;br /&gt;Ｋ中学校の生徒は、いろんな生徒がいた。接していて自分が中学校の頃を思い出した。わりと向こうから話しかけて来たので、そういう意味では楽だった。&lt;br /&gt;生徒はひとりひとりがすごく魅力的に見えた。それぞれが悩みを持っているのだが、力強く感じた。接することで力をもらった生徒もいた。人には色んな魅力があるものだなと思った。複雑な境遇を持った生徒もいた。接していて楽しさがあったり教えられることがあったりした。自分の波乱万丈な過去さえ肯定できるような気がした。不思議なくらい充実していた。&lt;br /&gt;結局、症状が少ずつ回復はしていっても完全には戻らなかった。そのため消極的だった。それでもこの職場は一生忘れない経験だった。申し訳ないという気持ちもあった。自分自身が役割を果たせたとはいえないからだ。最後はただ感謝する気持ちだけだった。&lt;br /&gt;『以前』と同じように人を好きになる『感情』があることに気づけた。&lt;br /&gt;少しずつだが家族の間に変化が見えた。祖母の家で農作業をするようになった。初めて畝を作って苗を植えた。&lt;br /&gt;妹の子どもの遊び相手をした。周囲も認めるほどわたしと姪っ子は仲が良かった。妹と母との関係が少しは良くなっていったのはこの姪っ子の存在に由るところが大きかった。&lt;br /&gt;翌年には父方の家のお墓参りに関西に母と2人で旅行した。&lt;br /&gt;〈Ｈ中学校〉&lt;br /&gt;Ｋ中学校の勤務が終了する間際、県から講師の話が来た。またクラスサポートの仕事なら断るつもりだった。しかし今度の勤務は美術の非常勤だった。&lt;br /&gt;引き受けるかどうか悩んだ。体調が安定していなかったからだ。しかし仕事をしているうちに良くなるのではないかとも思った。勤務時間も週に9時間くらいしかなかった。クラスサポートのように動きのない仕事ではなく、自分が活かせる仕事をするうちに調子が良くなっていくのではと思った。&lt;br /&gt;美術の授業は久しぶりに責任のある仕事だった。非常勤なので勤務時間だけ職場にいればよかったのだが早めに出勤してしっかり準備して望んだ。&lt;br /&gt;しかし調子は思うように出なかった。なかなか回復してくれなかった。&lt;br /&gt;しかし過去についての思いを整理すると調子が出てくることもあった。何とかいけるのではとも何度も思った。&lt;br /&gt;夏ごろ、心療内科にデイケアというサービスがあることを知った。Kクリニックで聞くと、そこでもしているとの事だった。そこで行ってみた。正直、場違いな気がした。敷居の高さも感じた。他の人に比べると明らかに軽いように思われたが、今になって考えるとそこにいる人とは病状が違ったためだろう。&lt;br /&gt;また夏から児童クラブでアルバイトを始めた。調子が良くもなっていてできると思った。しかし思いのほかつらかった。&lt;br /&gt;自分の調子を見極めるのがいつも難しいことだった。&lt;br /&gt;自分の過去について、どのような整理の仕方が良いのか、どのように考えるのが正しいのか悩んでいた。&lt;br /&gt;この頃、自分の中で、『自分の世界』が2つに分かれているような感じがしていた。その2つの世界がせめぎあっているのはないかと感じることがあった。足をひっぱってりあっている感じがした。&lt;br /&gt;（その2つとは上手く整理がつかないが・・・『10年間の自分』と『気付いてからの自分』なのか。言い方を変えれば、高校時代ごろに無意識に抑えつけられて隠れてしまった『裏の自分』と、自分の一部を隔てられながらも、表立って活動していた『表の自分』だろうか。なんにしても、繋がりが希薄になり裂けてしまっているように感じることもあった。）&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-06-08T07:59:15+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/cptsd_4d03.html">
<title>⑨C-PTSDを知る</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/cptsd_4d03.html</link>
<description>2006年末、たまたまネットで児童虐待についてのHPを見つけて読んだ。そこに書か...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;2006年末、たまたまネットで児童虐待についてのHPを見つけて読んだ。そこに書かれていた管理人の体験談に共感できるところが多かった。&lt;br /&gt;この頃、調子が前進しないのでやはり心療内科に通うべきだと思っていた。薬物療法より心理療法が必要だと思った。きちんとした専門家の治療が受けたいと思った。&lt;br /&gt;隣町のＹ市にあるＨクリニックに行った。カウンセラーと院長に話を聞いてもらい、はじめて経緯についてきちんと理解してもらえたように思った。そこで2週に1度のカウンセリングを受けることにした。これまでの体験を時系列に並べて書いていって読んでもらった。&lt;br /&gt;それからネットで紹介されていた書籍『心に傷をうけた人のこころのケア』を読んで、PTSD後の反応を知った。自分の症状と似ていて驚いた。自分はPTSDではないかと思った。PTSDのことをカウンセラーに相談するとわたしが体験したようなことは心の傷になり得ると言った。院長もそう考えてよいと言った。&lt;br /&gt;1月にハーマン著の『心的外傷と回復』を読み複雑性PTSDのことを詳しく知った。それを医師に話した。院長からそう考えて間違いないと言われた。&lt;br /&gt;トラウマが原因だと考えると、自分の過去について少し整理がつき風通しが良くなった。『気づき』の時に思い出した経験。過去の記憶と向き合った経験。それらのことに説明がついた。自分の経験をきちんと他人に説明ができようになっていった。他にも斉藤学さんの本を読んだ。&lt;br /&gt;『気づき』から症状を知るまでの道のり（3年もかかった)もけっしてスマートではなかった。それどころか、また多くの人に迷惑をかけてしまった。もう同じことを繰り返さないようにしたいと思った。今度、子どもに会うときはもっと自分の問題をクリアにしておきたい。&lt;br /&gt;仕事も講師を辞めて簡単なアルバイトからはじめた。何かを手放さないと何かを得ることもできないと思った。&lt;br /&gt;実際、経験してみて変わっていないところも分かってきた。『好み』なんかもそうだ。趣味や仕事に対しての好みはまったく変わっていないようだ。『10年』のまったくの続きである。&lt;br /&gt;これからは特に自分の好きなことを大切にしていきたい。&lt;br /&gt;また迷惑をかけた分の『償い』も必要だと思う。自分のためにも。&lt;br /&gt;気付きを得たことでわたしの考えや世界観は大きく変わった。新しい未来像が必要だと思う。&lt;br /&gt;『表の自分』『裏の自分』が裂けているのは、気付きの時点だけでなく、高校卒業時もだと思う。&lt;br /&gt;気付いてから『表の自分』を責めて否定しがちだった。『裏の自分』から見た『10年間』はショックだったと思う。この感情が収まらないということではないだろうか。別に『裏の自分』が悪いわけではないのだが。自分の心を守るために壁のようになっていたのだと思う。&lt;br /&gt;論理だけでなく思いや感情で繋いだ『気づき』でもあったと思う。&lt;br /&gt;まだよくは分からないが。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2007-12-06T23:37:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_66fd.html">
<title>⑩それから</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_66fd.html</link>
<description>高校時代の自分が悲しんでいるような気がする。だからいくつかの約束を自分にした。そ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;高校時代の自分が悲しんでいるような気がする。だからいくつかの約束を自分にした。そうすれば彼も安らかになるのではないか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『10年間の自分』にはもどれないことはよく分かっていた。でも高校時代の自分にも戻れない。どうやっても以前と同じにはならない。こころの形が変わってしまったのだろうか。まるで高校の時に私は一度死んだのだようだ。ユングの本を読むと『死と再生のモチーフ』ということが出てきた。あの日に見た夕日はまさにそういうことではないだろうか。もう元には戻らない。一度死んでしまった。そのかわりに新しい自分が生まれた。それが一度に起きたため混乱したのではないか。&lt;br /&gt;そんな自分の生も死も受け入れて平安な気持ちになれるだろうか。過去に対して否定的になり、区別せず、こころで繋がれるだろうか。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2008-03-30T00:31:21+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_c517.html">
<title>マンガの部屋</title>
<link>http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_c517.html</link>
<description>本文の ⑥から⑦にかけてを、マンガにしたもの。（全10ページ） ファイルを開いて...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=656,height=536,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot; href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/07/11/2_4.jpg&quot;&gt;&lt;img title=&quot;2_4&quot; height=&quot;310&quot; alt=&quot;2_4&quot; src=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/07/11/2_4.jpg&quot; width=&quot;380&quot; border=&quot;0&quot; style=&quot;FLOAT: left; MARGIN: 0px 5px 5px 0px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本文の ⑥から⑦にかけてを、マンガにしたもの。（全10ページ）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ファイルを開いて見てください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;マンガの最後のほうに『「10年」と分断されてしまった』と書いてるが、それをできることならこころの中で区別しないようにしたほうが良いなと感じた。。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/01.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/02.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;3P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/03.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;4P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K04.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;5P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K05.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;6P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K06.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;7P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K07.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;8P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K08.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;9P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K09.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;10P&lt;a href=&quot;http://yakann-daikonn.cocolog-nifty.com/blog/files/K10.jpg&quot;&gt;ダウンロード&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『ナラティヴ部屋～自分の人生を作品に。』は、管理人ナガが自分の人生を語る（ナラティブ）ことによりＣ-ＰＴＳＤ（複雑性PTSD）を克服しようとするページです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;C-PTSDでは、昔の心の傷が年月がたってから症状として現れることがあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;過去の記憶を作品のようにつづることで、より人生を客観視して、自分のものにしようと思いました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;物語（記事①～⑨）はだいたい時系列にそって書かれてあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(注意)あなたが、わたしの物語を読むことで万が一、気分が悪くなるようなことがあるかもしれません。そのときはすぐに読むのを中止してください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;では、もしよろしければご一読ください。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>心と体</dc:subject>

<dc:creator>ナガ</dc:creator>
<dc:date>2008-07-11T22:34:19+09:00</dc:date>
</item>


</rdf:RDF>
